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自衛隊の解消にむけて>澄空さんへ

2001/3/14 前衛

 澄空さん、今晩は。

 私の自衛隊に関する議論へのご批判ありがとうございます。実は、私は投稿そのものは、今年になってからですが、以前からこの「さざ波通信」は拝見しておりました。特に、13号の自衛隊「活用論」批判などは、殆ど私の意見と同じであると認識をしており、共感をもって見ておりました。
 私が投稿しようと思い立ったのは、大会で自衛隊問題についてかなり重要な「変更」がありましたし、「保留」をされた代議員について、個人的にもそのグループの活動を存じ上げているというようなこともありました。
 また、「さざ波通信」が、大会前と後の共産党の政策について、その「変化」を無視している(また、多くの投稿者が気にしていない)というのも、「批判」のあり方として、問題があると考えておりました。そこで、批判の「死角」というような投稿の仕方になった次第です。ですから、「さざ波通信」の共産党執行部への批判の多くについては、かなり共通の認識をもっている(渡辺治さんへの批判などは、ちょっと勇み足だと思っておりますが)ということです。

 さて、澄空さんの私への批判について、お答えしておかなければなりません。澄空さんのかつての投稿を含めて、社会党の「社公合意」問題や、自衛隊の段階的解消政策についての議論は、すべて目を通しておりますし、私自身が「社公合意」路線とは歴史的に大いに「闘って」来た経験ももっています。
 澄空さんが、どういうように社会党の「右転落」或いは「社公合意」について、批判をもっておられるのか、よくわかりませんが、最大のポイントは「安保の容認」ということだと思います。ですから、この点で、22回大会での志位書記局長の「報告」と「結語」の批判の仕方は適切であると思っています。

Ⅰ)80年代の社会党との対比について??

 私が共産党の今回の自衛隊段階的解消論と社会党のそれとの違いについて「社会党が社公合意によって、安保・自衛隊問題を政権参加の際に「棚上げ」にしつつ、「党」の独自路線としては「段階的解消」や安保否定論などを述べていたことと対比して、その違いは明確である」と述べたことに対し、澄空さんは、「大会での中央委員会報告そのままであり、対比の仕方が根本的に間違っていることに気づかれていないようです。共産党には「民主連合政府」の政策以外に党の「独自路線」があるかのようですね?」とのべ、
 ①社会党の独自政策に対応するのは、共産党の民主連合政府の政策
 ②社公合意に対応するのは、安保凍結の「よりまし」政権の政策
 とされております。

 平たくいうと、澄空さんの私の文章への批判は「そんなことは共産党だって同じである」ということでしょう。つまり、「よりまし」政権では安保は棚上げであるが、「民主連合政府」(共産党の独自政策)としては安保廃棄、自衛隊段階的解消であり、これは、それぞれ社公合意、社会党の独自政策に対応してしている、ということですね。
 澄空さんが引用された私の文章は、今回の大会での「方針変化」を指摘している部分です。つまり、自衛隊の段階的解消論を民主連合政府参加への条件としたということを指摘しているのです。それまでは、民主連合政府がどういう自衛隊政策を取るのかについて、共産党としての条件づけはなかったわけです。寧ろ、自衛隊解消後の憲法改正と自衛権の明確化及び武装中立化、という「その後」の方向が問題になっていたわけです。
 その意味で、澄空さんの指摘する①は正確ではありません。今回の大会の「修正後」に独自政策と民主連合政府政策とがオーバーラップしてきたというのが真相でしょう(もう少し正確にいうと、20回大会で憲法の位置づけを変化させてきたことから始まっているのでしょう)。
 まあ、そんなことは澄空さんには、「瑣末」な問題だと感じられるでしょうから先に進みましょう。社会党の「独自政策」では、安保問題は「日米安保条約を外交交渉を通じて解消します。その際、日米安保条約第10条の1年予告の廃棄条項も適用されます」となっていました。これを10条のよる「破棄通告」と読めますか?実質的に「外交交渉」によるアメリカの「合意」の下での「解消」ではないのですか。私はそう読み込んで来ました。文言上は確かに、党内の反対派を「言いくるめる」ことはできると思いますが。
 一方、共産党の民主連合政権下での自衛隊解消政策は、大会決定では第2段階の安保廃棄後(これが不破氏のドイツ共産党への回答では、第2段階が民主連合政府そのものになっている・・・私にはこれは「瑣末」とは思えませんが)となっており、安保問題での「まぎれ」は全くないといってよいと思います。この安保問題での政策がハッキリしていなければ、自衛隊をどうする・こうすると言っても実際の政治過程では、「現状維持」しかないでしょう。ここは重要なポイントですから論点として明確にしておきましょう。

注)私が「さざ波通信」の安保より自衛隊の解散の方が「簡単」論を批判したのは、結構重要な視点からです。戦争一般の廃棄と軍事同盟の廃棄の歴史段階的な相違を持ち出したりもしましたが、日本の現実の政治過程において、自衛隊の侵略性は、安保と固く結びついているし、安保抜きに存在できないほどの歴史的な重み、経過を持っていると思います。中核派のように、日帝の独自の軍隊と見れば、それは、日本独占を倒しさえすれば、簡単に解消できるでしょうが。この点の私の主張は注意して読んでみてください。

 さて、②ですが、「社公合意」を本当に「よりまし」政権と同じと認識されているのでしょうか。ちょっと驚きです。「よりまし」政権というのは、暫定政権とも言われており、当面の一致できる課題で、限定的な政権だと認識しています。それに、現在の方針では(まじめにやるかどうかは別にして)、戦争法を発動しないことをすべての連合政権の条件にしておりますね。
 今回の大会で、自衛隊活用論を「民主連合政府」の段階(上田氏は、自衛隊の対米従属性を除去した、改革後の段階と読める論文を書いておりますが)とする以前は、野党連合政権でも「活用」できるという体のもので、本当にビックリしましたが(余談)。

 社公合意は、それまでの「全野党共闘」論(これは、二面性があると規定しておりましたね)を捨てて、政権構想として共産党を「排除」するもので、当面の一致する課題で少しでも国民の要求を前進させるというものとは異なります。また、安保や自衛隊問題には「触れない」のではなく、現状を容認するものでした。安保や自衛隊問題を「横において」その他の重要な国民的課題の一致点で、共同するというものでは少なくともありませんでした。
 澄空さんは30代ですね。共産党の社公合意の批判は、「合意」の文章、字面だけではなく、その間の具体的政治的な対応を含めて批判をしています。
 まあ、私がこういうと、現在の共産党のあり方を「弁護」しているように思われてしまうのですが、労働戦線の右翼再編にしても、社公合意にしても、「字面」は随分と工夫して(しかし、先の安保解消政策など注意してみると本心が透けますが)、それは大変な「苦労」をしていたわけです(裏話なども沢山あります)。

 澄空さんは、かつての社会党の自衛隊段階解消論の方が、緻密で具体的であると評価されているように見えますが、肝心の安保問題を党独自問題としても次第に曖昧にしながら、社公合意で自衛隊を容認し、一方で党独自に自衛隊段階解消論だけが緻密化されていくプロセスは、それはグロテスクなものでした。私は多くの良心的な社会党員を知っておりますし、現在でも付き合っている人は多いのですが、こういう「欺瞞的」なやり方を一番批判しておりました。結局、国民を欺くことになる、と。

Ⅱ)80年代社会党と共通する現状容認??

 澄空さんの投稿を拝見して、
①安保と自衛隊問題をもう少し、議論する必要性
②憲法の平和的生存権の国際的、積極的な意味の解明を前提として、「力のバランス」論ではない、つまり軍事力で「平和を維持する」のではないというイデオロギーと実際の政治体験の必要性をどうみるか。
 などが重要であると思いました。

 私はS・Tさんの主張がどこにあるかは理解しているつもりです。国民世論や平和情勢の成熟化を「前提」とすれば、いつまでたっても「れば、たら」で、自衛隊を無くせないということでしょう(ちょっと、雑ですが)
 私は、世論形成への主体的寄与として、民主連合政府下での安保廃棄、中立の達成を前提にして、憲法の平和的生存権(共産党はこの概念を大会決定などで使用しておりませんね)を前に出して、軍事力によらない平和への寄与という日本的なプログラムを実践するなかで、憲法9条の「現実化」(理想化から現実化)が国民の合意形成になってゆくという「流れ」は、正しいと思います。
 ただし、何回も書いているように、自衛隊問題と安保を別の問題とするのは、「問題」であり、その区別を重視しつつも、「同根」の問題として扱う必要があること、従がって、政策論としては、安保条約廃棄のプロセスとオーバーラップさせて、具体的な解消へのプログラムを提起することが重要と考えております。この点で、ドイツ共産党への不破回答はなし崩し的に、この方向に歩み寄っており(手続きは大変に大きな問題があるとみておりますが)、今後の動向を注視したいと思っています。
 澄空さんの言われる「『力のバランス』論に立たない自衛隊の一方的・先行的解消こそが平和への貢献であると考えています」というのは、安保条約との関係を明確化させる必要性がありますが、結論として、憲法の精神とはそういうものだと思っています。
 ただし、この板でも散々「れば、たら」「もし主権侵害されたら」というトートロジーから脱却できないわけで、どうすれば脱却できるのかといえば、やはり国民の政治体験を通じる以外にはないと思うのです。誤解を恐れずにいえば、憲法をいくら説教しても、国民は納得しないし、安保の解消にしても、同じことだと思います。

 常備軍を持たないコスタリカのことについて、かなり様々な方面から検討をしましたが、やはり、これも理念だけからではなく、中南米の具体的な情勢判断があり、理念と実践つまり体験との循環によって、国民世論として定着していると思うのです。

 これには、共産党自身がもっと憲法感覚を磨いて、政権党として「違憲の自衛隊」を「活用」することがあるなどという「トンチンカン」な設定をするのではなく、また、急迫不正の主権侵害などは「ありえない」のだから、「活用」などというな!というような、これまた国際情勢や様々な可能性を無視した議論を展開するのではなく、「どうやって、平和的手段で、国際政治へのイニシアを発揮できるのか」という憲法の精神と、安保廃棄中立の下での、具体的な政治体験と革新勢力の積極的な運動が重要だと思うのです。
 私の自衛隊の段階的解消論は、憲法と自衛隊の矛盾を法的に解消する手段という意味を出ません。やはり、運動と結合してはじめて実現の可能性が出るものだと理解をしています。

 いつものことですが、論争というより、お互いに論点を提供して、深める方向で議論ができればと思っています。私も様々な論点を出しておりますので、澄空さんにも、色々とご教示いただければと思います。
今回、「どういう段階的解消か」という論点をお出し頂いたので、一層具体的に議論を進めることができると思います。