先ごろ日本共産党副委員長上田耕一郎氏の著書『戦争・憲法と常備軍』(2001年3月、大月書店刊)が刊行された。5つの論文からなる本書は、その巻頭に「私として初めての戦争論」として「21世紀を『平和の世紀』に―戦争違法化から戦争廃止へ」(雑誌『経済』2001年2月・3月号掲載論文を収録)を置き、第Ⅱ論文として、「私の初めてのやや体系的な憲法論」として「憲法九条の意義と対決の発展」(2000年5月成稿、初出)を収めている。
今回の投稿では、上田氏のこの二つの論文(以下、「第1論文」・「第2論文」と略記)について、日本共産党の「自衛隊活用論」吟味という観点から取り上げ、いくつかの気のついたことを論じてみた。
まず、本書序文において、上田氏は、
第1論文「執筆の契機は日本共産党の第二二回大会の決議案をめぐる内外のさかんな論議だった。とくに『自衛隊活用』論については党の内外から多くの意見が集中し、そのほとんどが憲法違反ではないかという批判だった。私も提案に責任を負う一人として、それらの意見が憲法九条を守りぬこうとする熱意に満ちていることを嬉しく思いながらも、資本主義大国として初めての常備軍の段階的廃止という具体的展望の歴史的意義にはあまりふれられていないことに問題点を感じ」
雑誌『経済』編集部の求めに応じて2000年10月に書くにいたったと述べている。
「それらの意見が憲法九条を守りぬこうとする熱意に満ちていることを嬉しく思いながらも」とは行き届いた配慮で感謝に耐えないところである。ともあれ、上田氏は、「自衛隊活用論」の可否妥当性よりも、「常備軍の段階的廃止という具体的展望の歴史的意義」をこそ評価し、支持して欲しいということであるらしいのである。
しかし、上田氏がいうところの「常備軍の段階的廃止という具体的展望の歴史的意義」論の真贋を決定する試金石こそ、この「自衛隊活用論」そのものではなかろうか。けだし、市民的常識に属することだが、憲法第九条の非武装平和主義とは、一切の軍事的手段を放棄したものであり、軍事力行使の有効性を原理的に否定しているものであって、このような憲法規範の実現、すなわち日米安保条約の廃棄と自衛隊の解散改編が、<自衛隊の活用が可能>だとする日本共産党第22回大会決議の理論と立場から可能と見るのはきわめて困難だからである。
1 「常備軍」言説の虚偽
まず、第1論文を読み始めると間もなく、本書表題にもあるところの「常備軍」なる語句が、何の吟味もなく当然のように使われていることに気がつく。この特徴ある語彙の使用は、日本共産党第22回大会決議の擁護を目指した本論文としては当然の要請であろう。同決議は「憲法九条は、国家の自衛権を否定してはいないが、…一切の常備軍をもつことを禁止している」と断言しているからである。ここに示された、日本共産党と党大会決議独特の九条解釈は、自衛隊活用論を導くうえで極めて重要な役割を担っているように思われる。(本投稿では詳述しないが、「憲法九条は、国家の自衛権を否定してはいないが」というのは、現代の憲法学の達成から見て、大変な嘘である。日本国憲法は「国家の自衛権」を否定し、平和的生存権を掲げるものである。)
第1論文の第1章は、「戦争と国家」と題し、「第一の問題は、近代民主国家と常備軍との関係である。」と語り始める。以下、この論文では、クラウゼヴィッツの『戦争論』に始まって、いくつかの有名な著作からの引用が相次ぐのであるが、特徴的なのは、「軍隊」や「軍事力」という言葉ではなく、「常備軍」という語句がことごとに散りばめられていることである。
第1論文のこのような特徴にたいして、第2論文では「常備軍」なる語彙が全く見受けられないことが鮮やかな対照をなしている。この違いの所以は、第2論文の成稿時期(2000年5月)にあるようである。この時期なら、第22回大会決議案決定以前であるし、2000年6月の不破哲三委員長(当時)による自衛隊活用論の表明以前だからである。もっとも、日本共産党の最高幹部の一人である上田氏が、この時点で、不破委員長の自衛隊活用論なる自衛隊政策の重大な変更意思を知らなかったとしたら、そのこと自体、党大会(21回大会)決議がいかにないがしろにされているかの有力な証拠といえるだろう。
それはともかくとして、第2論文で引用され依拠されている大会決議は20回大会のものである。第2論文の末尾は、同大会決議を引用して
「憲法九条にしるされたあらゆる戦力の放棄は、綱領が明記しているようにわが党がめざす社会主義・共産主義の理想と合致したものである。日本共産党は、憲法九条の擁護と、憲法の民主的原則の擁護・徹底を結びつけた、広範な国民的戦線をつくりあげるために、全力をつくすものである。」
と結ばれている。
すでに、いくたりもの論客によって本「さざ波通信」でも、日本共産党決議の次のような変遷が指摘されてきた。すなわち、20回大会決議=「あらゆる戦力の放棄」・第21回大会決議=「わが国が恒常的戦力によらないで安全保障をはかることが可能な時代に、私たちは生きているのである」・第22回大会決議=「わが国が常備軍によらず安全保障を確保することが、二十一世紀には可能になるというのが、わが党の展望であり、目標である」という、弁証無しのなし崩しの変更である。この第2論文と第1論文との見事なまでの語彙の違いは、日本共産党による九条解釈のこのような変更を忠実に反映しているといえよう。
しかしながら、日本共産党のそのような九条解釈は、今日の憲法学の到達点からはもちろん、ごく一般的な憲法学書に照らしてもまったくユニークな解釈であることを、上田氏をはじめとして本大会決議に忠良なる党員諸兄姉には自覚していただかなければならない。憲法第九条が「あらゆる戦力の放棄」を規定していることは、学校教育でこれを習う小学校6年生の少年少女でも知っている知識である。上田氏自身も第2論文で、憲法九条が「いっさいの軍備の不保持と国の交戦権の否認を宣言している」ことを明言したうえで、『註解日本国憲法』(刊行後50年に近づこうとするこの古典は、党幹部お気に入りの著作のようである。2000年7月の日本共産党創立78周年記念講演でも、不破哲三氏は「多くの憲法学者の一致した見解を述べている」として、この書を称揚している。ちなみに有斐閣の同書復刻版は金3万円である。注文に際してはご注意を。)の次の一節を引用している。曰く「自衛及び制裁の場合を含めて一切の戦争を放棄し、更に進んで軍備までも廃止した憲法は他に見当たらない」と(上田氏本書87頁)。
このように正当かつ正常な九条解釈に立つ限り、「国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。」として「過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」(第22回大会決議)ことを正当化することなど金輪際できない相談である。「憲法の立脚している原理」とは、「自衛及び制裁の場合を含めて一切の戦争を放棄し、更に進んで軍備までも廃止した」ところが眼目であって、「存在している」自衛隊(まぎれもなく軍備・戦力)を「活用する」ことは、「憲法の立脚している原理」を蹂躙して憚らないことを傲然天下に宣言していることにほかならないからである。
この破綻の弥縫策として、救いを求めたのが「常備軍」言説ではあるまいか。第22回大会決議およびこの第1論文で駆使されている「常備軍」なる語彙は、「急迫不正」の事態における、「国家自衛権」の発動、すなわち<非・常備軍=臨時に組織された軍事力の使用は正当であり有効である>=<有り合わせの軍事力・そこにあって残存(?)している自衛隊の活用は当然である>ことを合理化するうえで実に有用なことばとして機能しているように見える。
かくして、この「常備軍」という重宝な道具に依拠しつつ、延々述べ来たった上田氏は、自衛隊活用論の弁明を次の一節に凝縮している。
曰く「『必要にせまられた場合』の自衛隊活用というこの態度表明は、違憲の自衛隊の容認とはまったく違って、反対に民主連合政府が国民合意のもとで、違憲の自衛隊が現実に存在しているというアメリカ帝国主義と日本の反動勢力が国民に押しつけた大きな矛盾の残存という困難な課題の国民的解決に、すなわち世界有数の二六万人の近代的軍隊という違憲の存在を、憲法にもとづき、国民合意のもとに段階的に解消していく重大な国民的事業に、確固として取り組んでいくという、日本共産党の首尾一貫した理論的、現実的立場の表明である。」(本書63頁)
この論理展開たるや実に凡百の及びもつかぬ高みを極めてはいないだろうか。長いセンテンスのこの一文から主観的な修飾語句を除いてみれば、要するに、<自衛隊活用という態度表明は、自衛隊解消に取り組んでいく日本共産党の立場の表明である>と言いたいのである。言葉とは便利なものである。Aと非Aをイコールで結ぶ「弁証法」さえ可能とするのだから。どこに「首尾一貫した理論的、現実的立場の表明」があるのだろうか。わずかに「現実的」立場は表明されているようだが、「首尾一貫した」とは、読んでいる者のほうが恥ずかしくなりそうである。「世界有数の二六万人の近代的軍隊という違憲の存在を、憲法にもとづき、国民合意のもとに段階的に解消していく重大な国民的事業に、確固として取り組んでいく」ための「首尾一貫した理論的、現実的立場」とは、<自衛隊=軍事力の有効性否定>という日本国憲法の平和主義を貫く立場以外にはない。
上田氏のこの「論理」に味方するものは、わずかに<「常備軍」言説=軍事力有効論すなわち九条否定論>をおいてあるまい。そのような「立場」に立ってはじめて、「国民に抵抗をよびかけながら、現実に存在している自衛隊にだけは抵抗を禁止したとしたら、これはおよそ国民の理解はえられないことは明白ではないでしょうか」(志位和夫書記局長による「第22回大会にたいする中央委員会報告」)との態度表明が可能である。
日本共産党幹部諸侯が知恵を傾けた末に編み出した<殺し文句>が、志位氏のこの弁論なのであろう。上田氏は、第22回大会での代議員発言で、「昨日の志位書記局長の報告は、この問題のほぼ完璧な解決、解明だったと思います」と、この<殺し文句>を「完璧」と絶賛している。もはや彼らにつける薬は無いのかも知れない。
憲法の示す非武装平和主義(それが単に憲法に掲げられているから絶対なのではなく、その内実において市民の依拠すべき規範でもあるからであるが)を守り、平和的生存権を守るため、われわれ市民が「現実に存在している自衛隊にだけは抵抗を禁止」するよう呼びかけたなら、「完璧」な解明をおこなっているわが日本共産党と「国民」なるものによって、おそらく抹殺されることが十分に予想される恐怖の言説である。
この恐怖の言説は、さらに、「国民の抵抗」と「自衛隊の抵抗」との本質的な違いを無視し、<頼もしい「力」>として自衛隊の軍事力発動に寄りかかろうとするものであって、大会決議の「戦争認識は恐ろしく幼稚」(大会決議案への南沢大輔氏の意見書より)かつ危険である。いかなるものであれ、軍事力発動が九条違反であり、なおかつ非有効的であることは、各地で起きている現今の紛争を見ても明らかであろう。
この点に関し、第22回大会での大会決議案討論において、渡辺照子代議員は、「自衛隊活用問題についての継続討議を求める」発言で、次のように指摘している。
「国民の生命と財産に責任をおう政党であればこそ、理論的回答としても国民を戦火にさらさないことこそ求められているのではないでしょうか。自衛隊を活用するということは、国民を戦火にさらすということだと思うのであります。」(『前衛』2001年2月臨時増刊号202頁)
決議案への真っ当な批判である。しかし、このあとに発言した上田氏の弁明反論は、「自衛隊を活用するということは、国民を戦火にさらすということだ」というこの批判に何の応答もしていないのである。いや、できなかったというのが真相ではなかろうか。
なぜなら、軍事力の行使に<多少の犠牲はつきものである>というのが軍事の冷厳かつ合理的・必然的な帰結であり、<大の虫を生かして、小の虫を殺す>(実は、大の虫の救済にもならないのだが)ことを憚らないのが軍事力行使だからである。さすがの日本共産党幹部諸侯も、これをあからさまに言うことはためらったのであろう。
それゆえ、この難問を回避して、上田氏は次のように弁明せざるをえなかったのであろう。
曰く「新しいアジアの情勢からいって、国際的に承認された中立の日本にたいする外部からの侵略はありえません。しかし、ありえないからといっているだけではすまない。国家論としていえば、国の安全保障の方針をとわれたさいに、民主連合政府には理論的政策的回答を用意する責任が課せられています。この意味で決議案の回答は、責任ある政党として当然の態度で、国連憲章第五一条にも合致しております」(第22回大会での代議員発言。本書62頁再録)
ご覧の通り、「日本国憲法第九条にも合致しております」とはいえないので、国連憲章にすがって粉飾をほどこしつつ、「理論的政策的回答を用意する責任」から述べたまでのことといいたいようである。つまり、仮定の問題であって、現実には心配ご無用というわけである。だとすれば、なお一層無責任といわなければならない。
「決議案で自衛隊活用としているのは、自衛隊解消を追求する過程で、かりに『万が一』の事態がおこったら、その時点において存在し、使用しうる手段を、使用できる範囲で生かす」(志位書記局長、『前衛』前掲号91頁)などといってごまかすことはできないのである。
憲法「改正」をめぐる厳しいせめぎあいの現下にあって、「その時点において存在し、使用しうる手段を、使用できる範囲で生かす」などとのん気に構えて、「自衛隊活用」をひとたび認めるならば、主観的にどのような「段階」を構想しようとも、改憲勢力という「敵」に橋頭堡を奪われてしまうであろう。このような「利敵行為」とその効果は、わが日本共産党による日の丸・君が代「法制化」論で証明済みである。
さて、軍事力行使の有害・無効性についてであるが、この問題については、手近な憲法論書にあっても、かなり以前から論じられてきたところである。早い話が、上田氏が第22回大会における代議員発言でも引用し、本第1論文でも同様に引用している、小林直樹著『憲法第九条』(1982年、岩波書店)にも明言されている(拾い読みは本来お勧めできないが、忙しい方は、その第八章の三節、四節だけでも読まれよ)。
ところで、後にも述べるところであるが、上田氏の第22回大会における代議員発言や第1論文での文献引用の作法には、当の文献の肝心な論点にはお構いなしに、その文献の権威を借りるかのようなつまみ食い的で恣意的な態度が目につくようである。この小林直樹氏の著書にしても、軍隊を有していない国をあげるデータとして引用しているだけである。データの出典を明示する必要からだとの見かたも可能だが、しかし、自衛隊活用論を弁明するに際して、有力な反論が盛り込まれている文献をわざわざ枕に振ることは、お気の毒ながら、上田氏自身にとって危険千万な行為となっているのは事実である。
ともあれ、上田氏が、「国民合意のもとに(自衛隊を)段階的に解消していく重大な国民的事業に、確固として取り組んでいくという、日本共産党の首尾一貫した理論的、現実的立場」を表明したい熱意に満ちていることを嬉しく思いながらも、自衛隊活用論によって憲法を蹂躙しつつある日本共産党の歴史的転落について恐ろしく鈍感なことに問題点を感じているのは私だけではあるまい。病膏肓に入るか。
2 「国家と戦争の本質」とは何か
上田氏は、多木浩二氏の『戦争論』(1999年、岩波書店)から次の一節を引用して、国家と戦争の本質について論じ始める。
「歴史的な近代国家は、法によって暴力を軍事制度として国家の機構に組みこむのである。したがって国家と暴力は法によって不可分である」。
この引用に続いて、「常備軍」と戦争における残虐性の事例を引きつつ、上田氏は「国家と戦争の本質とむすびついた、こうした残酷な暴力的事態は、「正戦」=正義の戦争の場合でも本質的に変わりはない。実はここから、戦争論、国家論、人間論にかかわるもっとも困難で複雑な問題がはじまる」と問題の深刻さを指摘し、竹内浩三の詩の一節「兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや」(この詩をご存知とは、上田氏がなかなかの読書家であることが分かる)を引いて、「数多い戦争論も、国家にとって合目的な戦争と」(この詩に表されたような―引用者注)「戦争に動員される国民一人ひとりのみじめな戦死との間にある巨大な乖離の深層を解明できているものは少ない」と断言する。
かくて「戦争は、国家と人間の複雑な関係から生まれてきた、個人としての人間と「類的存在」としての人間にかかわる自己疎外の極点に位置するもっとも重大な社会現象といえよう」と一般化をほどこしたうえで、「戦争と国家、人間の問題にひそむすべての矛盾と困難を解決しうるものは、戦争の社会的廃止以外にない」と提示する。(以上、本書67~68頁より引用)
これは、「自衛隊解消」の展望を、「かなり長期にわたる内外情勢の発展とそのなかでの国民的体験の段階的成熟が必要であろう」(第2論文、146頁)として将来に託す立場の表明でもあるように見受けられる。
それはともかく、以下、「常備軍のない近代民主国家」実現の具体的条件と歴史的意義に関する記述が縷々続くのである。
しかし、重要なことは、「常備軍のない近代民主国家という、日本共産党が現代世界にむけて提起した(まるで、日本共産党が初めて提起したような口吻が困りものだが―引用者注)新しい課題」を賞賛陶酔することではない。
「「戦争と国家、人間の問題にひそむすべての矛盾と困難を解決しうるものは、戦争の社会的廃止以外にない」とした結果、「常備軍」廃止にいたる間の自衛隊活用論=軍事力有効論が当然引き起こすであろう、「国家にとって合目的な戦争と」「戦争に動員される国民一人ひとりのみじめな戦死との間にある巨大な乖離の深層」を棚上げにしてしまっていることこそ、平和的生存権に関わる重大事として論じられなければならない問題であろう。上記の「国民を戦火にさらす」という問題もこれにふくまれる。
上田氏は本書序文において、自身の体験に言及し「小学生の同級生六二名のうち三名の友だちが特攻隊となり、そのうちの一人岡田君は出撃の前に私に会いに来てくれた。『この友の命で、戦争に疑問をいだく自分の命が守られているのか』と、矛盾を肌で感じて苦しんだ記憶がある」と述べている。そうした体験を持った者が、「国民一人ひとりのみじめな死」をもたらすところの軍事力行使を肯定することがはたして可能なのであろうか。上田氏自身のためにも遺憾としなければならない。
3 平和的生存権とは何か
上田氏が、国家と暴力の本質論の周辺をなでまわしながら、結局のところ、自衛隊活用論の暴力的言説に無頓着なのは、一つには平和的生存権についての無理解が横たわっているであろう。思えば、多木浩二氏の『戦争論』も、つまらないダシに使われてしまったものである。
なるほど、第1論文の最後にも引用された上田氏の22回大会での代議員発言には、「諸国民の平和的生存権を宣言した憲法前文」なる言及はある。また、第1論文本論中でも、言葉としては紹介されてもいる。
平和的生存権に関して、上田氏は、武者小路公秀著「平和的生存権と人間安全保障」、横田耕一著「『平和的生存権』の『国際化』に向けて」(いずれも深瀬忠一・杉原泰雄・樋口陽一・浦田賢治編『日本国憲法からの提言―恒久平和のために』勁草書房、1998年所収)といた論文を紹介している。しかし、先の小林直樹著『憲法第九条』の「引用」に際して述べた通り、ここでも、上田氏は、単に博引旁証らしきそぶりを見せるだけで、当該論文が提出している本質的提起を見逃している。
たとえば、武者小路公秀氏は「(日本国憲法の掲げる平和主義は)いかに人間イコール市民イコール国民の平和的生存に国家の安全保障が必要であるとしても、核から低強度紛争の軍事力にいたる武力の使用は、なんらかの形で人が平和のうちに生存する権利を脅かす、ということを主張している、と解することができる。」「戦争によって、たとえ国家の利益を追求することが、国家の利益にかない、国家安全保障上で必要とされている場合も、あきらかに平和的生存権を侵すものである、というのが、日本国憲法の基本思想である。」と指摘している。(前掲書170頁)
平和的生存権は個人に付与された人権であって、自衛隊活用論がもたらす軍事力有効論(人権の抑圧や一人ひとりの死を、やむおえぬ「犠牲」として突き進む)とは真っ向から衝突するものであることが読み取れよう。
上田氏は、本書『日本国憲法からの提言』を紹介して「日本共産党の今回の大会決議のめざす方向と基本的に一致する論稿が多い」といっているが、本書に寄稿した論者から見れば、はなはだ迷惑な言い分ではないだろうか。
同書からの引用に関してもう一点紹介しておこう。上田氏は、各国での軍隊のない国家をめざす市民運動に言及したなかで、「ドイツにも、連邦軍廃止を求める市民運動『軍隊のないドイツ』(BOD)がある」として、水島朝穂著「自衛隊の平和憲法的解編構想」を引いている。しかし、繰り返しになるが、引用論文の全体まで見渡し、自分の主張に照らして重要な論点を提供しているものであればこれに考察を加えるのが筋というものではないだろうか。
水島朝穂氏は同論文で、自衛隊の解編(自衛隊の解散と、非軍事組織の新たな編成の過程全体を指す著者の造語)にあたって、「日本国憲法九条(とりわけ二項)の内容を一貫させれば、あらゆる形態の軍隊および軍隊類似組織の保持は許されない。違憲の国家行為はどこまでも違憲である。国民の支持が「定着」しているからといって、その事実だけでは合憲となるわけではない。違憲でない状態をどのようにつくりだしていくかが問われているのである」とし、「決定的問題は、自衛隊を違憲の軍隊として存続させ続けるのか、それとも、憲法に適合的な非軍事組織に転換させる方向に踏み出すのか、の選択にある」といった原則的視点のいくつかを掲げている。(前掲書600~601頁)
憲法九条によれば「あらゆる形態の軍隊および軍隊類似組織の保持は許されない」のであって、「一切の常備軍をもつことを禁止している」のではないとの指摘を、上田氏はどう読んだのであろうか。
また、「安全保障の空白」への対応についても、水島氏は「日本の場合、憲法で一切の軍事的手段を放棄した以上、どのような場合でも、軍事力には依存しないで目的を達成することが求められるのである」として、「難民の大量漂着、テロ組織の活動、島嶼における国境紛争等」「遠くない将来想定しうる事態」には、「警察や海上保安庁の各種機能の強化(但し、警備公安警察優先の組織構造の改革を伴って)により十分に対処可能である。」「ただし、海上保安庁法二五条により、海保の軍隊化は許されない。純粋な国境警備活動と海上における行政警察活動に従事するのである」(同書610頁)としているが、この構想と自らの党の「自衛隊活用論」との決定的で本質的な違いに、上田氏はどのような態度をとるのであろうか。
4 自衛隊活用論のもたらすもの
以上、上田氏の論文に関して、気がついた問題点をいくつか列記したが、最後に、「自衛隊活用論」の災厄と犯罪性について、一部繰り返しになるが、箇条書き風に記しておこう。
①自衛隊活用論は軍事力有効論である。この立場に立つ限り、日本国憲法の徹底した非武装平和主義と平和的生存権との実現は永久に不可能である。
②「自衛隊活用」には有事法制の整備が当然必要であり、それにともなう人権抑圧も当然認められることになる。
③自衛隊を「活用する」ためには、一定の軍事力水準の保持と訓練が必要不可欠となる。「軍縮」は「理論的に」不可能となる。
④「必要にせまられた場合」と判定する国家意志決定は、大会決議ではほとんど無限定である。政権に参画した日本共産党にならそれを託せるとでもいうのであろうか。
⑤「活用する」とは、「活用される」自衛隊員やその家族の平和的生存権をどう評価すれば可能な言説であろうか。
⑥自衛隊員が「活用」にともなう命令に背いた場合はどうするのか。日本国憲法に特別裁判所=軍法会議の設置を許す規定は無い。決議は、憲法改正を示唆しているのであろうか。
⑦「自衛隊活用」が発動されたとき、これに反対する市民が運動をおこした場合、抑圧されない保障はなにもない。有事法制は当然これを禁止し、公権力が襲いかかることになる。
⑧「自衛隊活用」は、軍事力行使にともなう人命の損失を当然視し、戦闘行動に支障があれば、市民の財産・生命は当然適宜処分される。
この災厄=平和的生存権の蹂躙を、わが日本共産党はその政策として決断したのである。
以上、「国家」や軍隊が国民を守る・守れると信じて疑わない上田氏をはじめとする自衛隊活用論者には、引き続き徹底した批判が必要である。妥協は許されないだろう。
「水に落ちた犬は打つべし」