僕も、jinさんと文鳥さんをめぐる論争を読んでいて、いろんなことを感じました。
確かに、文鳥さんやその後家族が被った事は悲劇でしょうし、裁判闘争により名誉毀損やそれに対する損害賠償を訴えることについてはなんら間違っているとは思えません。また、jinさんと文鳥さんとのジェネレーション・ギャップといったものもあるのかもしれません。
しかし、運動の出発点はあくまでも「自分」であり、組織よりも自分を優先させるべきだというjinさんの意見は正しいと思います。自分のためではなく、社会のために運動をするべきだという意見もありますが、僕は「社会」などという抽象的なもののため動くことはできません。むしろ、自分の身の回りでおきたより具体的な問題のために人間は動くものではないでしょうか。
例えば、一連の公害裁判が日本の社会運動史に及ぼした影響は計り知れないものがありますが、裁判を行った個々の被害者たちは社会正義のためなどという抽象的な目的ではなく、自分たちが公害による被害者だという認定を国や企業に求めさせるという具体的な要望が出発点としてあったのだと思います。
住民運動を行っている人間に対して、社会正義の観点から「お前たちのやっていることは住民エゴだ」なんて厚顔無恥な発言は僕にはできませんし、する権利もありません。
僕は上記のようなことを学生時代以来、共産党に所属している人に言ってきましたがなかなか理解してもらえませんでした。でも、自己犠牲を払ってでも社会のために、党のためにという発想では、広範な層の支持を得られないのではと思います。
とはいえ、jinさんが文鳥さんに対して「辞めたければ辞めればいい」とばっさり切り捨ててしまうことには賛同できません。一部の強い人ならともかく、大多数の人間は何らかのしがらみの中で生きているわけだから、そう簡単に辞めれるものではないと思います。まあ、おそらく、jinさんは一部の強い人なのかもしれませんが・・・