70年代後半、12回大会後、党活動の傍ら夜学で教職免を取得し、数年後、副業禁止の職場規定に違反しながら小さな学習塾を経営していました。趣味もあり、毎日時間に追われ、労組役員やらなにやらパニクッテいました。また、大学の専攻は仕事と分野も異なり、将来転職の意思も持ちつづけていました。支部会議でもなかなか心情の吐露ができず、ただ時間を中央課題のツメに割かれるだけに終わっていました。遠距離通勤のため時間に追われ、不便なセンターに通う足が遠くなっていったころ、自宅電話に支部長から「やめろ」と連絡が入りました。そのような指導は間違っているので上級に訴願すると伝え、直ちに電話したところ、支部名を聞かれ、「こちらから伝ておく」と一言いわれました。後日居住支部から連絡が入った時には既に転籍手続きがとられていました。
ショックで仕事にやるきをうしない、数ヶ月退職しました。退職の理由も党支部、労組からも聞かれることはありませんでした。その後、居住支部から連絡があったものの、出向くつもりには到底なれませんでした。現在、復党や再入党の意思はありません。職業も自分で開拓しました。寄らば大樹の陰という、あの忌まわしい、職制達の薄ら笑いに取り囲まれて暮らした若き日々。時折夢枕に登場する、そこに座る自分の姿を見つめる、やるせない朝を迎えるものです。
私は誓って反党思想の持ち主ではありません。朝鮮部落と呼ばれた、煙突に囲まれた町で、生活保護家庭の長男として、中学、高校時代を過ごしました。67年当時でありました。15歳のとき、年齢をごまかして民青に入ったものの、同盟費が払えなくて未決。高卒後、社会に出た瞬間、喜び勇んで再加盟したものです。中学生同盟員の頃、みすぼらしいセンターで鉄鋼労働者達とともに班会議をしたり、荒木栄の歌唱を教わった記憶があります。会議の途中、朝鮮総連の青年部が訪れ、上野で開かれる物産展への参加オルグをしていったという、今となっては珍しい思い出もあります。工業高校は生活苦もあり、担任の先生と親の勧めで行きましたが、もともと文章を読み書きすることが好きであったので高校の授業そっちのけで先進的な読書に勤めていました。中学3年生から赤旗は熱心に読んだものです。創価学会の言論弾圧の頃でした。学生服で駅前の演説会に拍手を送り、街頭ビラは戻ってももらいにいきました。
私の体には、この場所で語り尽くすことのできない、階級的必然性なるものが内在していると思います。知恵のあるもの知恵を、力のあるもの力を、金のあるもの金を、なぜより合理的に、ささやかな意欲を汲み上げられないのでしょうか。名古屋市長選で、かの狐目、宮崎氏ががぼやいています。彼も決して共産党が嫌いではないとおもいます。私は共産主義者が大好きで、偽ることの無い日本共産党の歴史もまた好きです。決して右傾化を望んでいません。ただ今となって、外部から申し出るのも失礼かと思いますが、現在過渡的に行われているであろう、民主の欠けた民主集中制は、歴史の残骸として、党大会の案件として、いつの日か上ってほしいものです。