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一般投稿欄

待子さんへ

2001/4/22 浩二、40代

 4月20日付、待子さんの「4.18投稿の浩ニさんへ 」に関してです。

私は、社会主義の展望は示さなくてもいいと思います。革命は、人がやるものではなく時代がやるものだと考えています。

 「革命は、人がやるものではなく時代がやるものだと考えています」については私もそのとおりだと思います。事前に「革命教育」を受けてきたわけでもない、弁証法的唯物論を勉強したわけでもない民衆がユーゴで立ち上がりました。「暴力革命」が起きました。このユーゴの「暴力革命」を私は賛同しています。そのとおり、時機が来れば革命は起こります。革命は人の思惑とは離れたところで時代がやるものです。人間が計算どおり進めて革命が起こる、そんなものではないと私もそう思います。
 しかし、日本共産党の科学的社会主義は、革命を科学的に展望する理論です。「革命は人がやるものではなく時代がやるものだ」を認めないのが科学的社会主義です。科学的社会主義は革命を計算で起こすことができる、そういう理論です。一から十まで論理立てて革命を起こす、これが科学的社会主義の中身です。「理論的に考えればこういう革命が起こる、それが人類の発展法則である」、こうブチ上げているのが科学的社会主義なのです。こうした科学的社会主義を日本共産党は理論的支柱にしています。
 だったら、理論的に、計算で展望できる革命=社会主義の中身を日本共産党は具体的に示すべきです。それが日本共産党の役割ではありませんか? 革命を科学で証明したと日本共産党は言っているのです。日本共産党は決して、「革命は人がやるものではなく時代がやるものだ」とは考えていない。「革命は人がやるものだ」と日本共産党は考えている。革命は、科学的社会主義を心底信じ、科学的社会主義の核心を自覚的に把握した人間のみが主導して実現できるものだと考えているのが日本共産党です。
 「革命は、人がやるものではなく時代がやるものだと考えています」。そうであれば、革命は理論的に展望し得るものだと称している科学的社会主義の存在はどうなりますか? 教えていただきたいものです。

民主主義をまもるには、余程の辛抱と愛情が必要です。だから、社会主義の基本は、愛だと思います。

 まるで論理の通らない一文です。民主主義と社会主義とは、少なくとも歴史的にはまったく無関係でした。歴史的な社会主義に民主主義はありませんでした。「だから」というこの言葉はいったいどういうふうに論理的なつながりをつけているのでしょう? 私にはさっぱり理解できません。理念的にも、「敵を倒せ」、「ブルジョアから生産手段を剥奪せよ」と言っている科学的社会主義の、どこに愛があるのでしょう? 教えてください。

資本主義の競争原理では、無駄が多く、公害も多いです。これを無くすのも、人民に対する愛情です。愛によって、必要なもののみの生産が上がるので、愛が生産手段になる社会が、社会主義だと思います。

 この一文に徹底した突っ込みが入った場合、あなたはいったいどこまで持ちこたえるおつもりでしょう?
 今回は詳細に突っ込みません。ただ一点、「必要なもののみの生産が上がる」。ここを教えていただきたい。
 「必要なもののみの生産」。では、「必要なもの」とは、だれがどうやって決めるのでしょう? 「資本主義の競争原理では、無駄が多く、公害も多いです」とあなたは言う。私もこれを100%否定するつもりはありません。では、「資本主義の競争原理では無駄が多く」という、この無駄は、だれかが押し付けたものでしょうか? 「これこれの無駄をせよ」とだれかが迫ってやらせたのでしょうか? 馬鹿な消費者が必要ないものまで買い食い散らし使 い散らし、そうしてできた無駄です。けれど、そういう「馬鹿な消費者」とて、「無駄なことをせよ」と押し付けられてやったのではない、欲望に目が眩んで気づいたら無駄をやっていた、そういうものです。欲望を押し付けたのはたしかに資本家でしょう。しかしその押し付けは、あくまで拒否できる土俵の上でです。財布のヒモをゆるめるのは消費者自身です。馬鹿だろうがなんだろうが、消費者自身の意思によって財布のヒモはゆるめられたのです。だれの強制でもない、正確には「だれの命令的な強制でもない、拒否しようと思えば拒否できた状況」のもとで選択した結果、生じた無駄です。
 では、「必要なもののみの生産」とは何ですか? だれが何を必要だと決めるのですか? だれかにとって必要なものも、だれかにとっては必要ではないかもしれません。だれかにとってクダラナイものも、だれかにとってはクダラナくないものかもしれません。これをあなたは、だれがどうやって決めると言うのでしょうか?
 「愛が生産手段になる社会が社会主義」に至っては、支離滅裂としか言いようがありません。言いたいことはよくわかりますが、生産手段はだれかが所有する物です。だれが生産手段を所有するかが資本主義と社会主義の分かれ目です。どうされるおつもりですか?
 「必要なもののみの生産」における「必要なもの」を列挙してください。何が必要なもので何が必要なものではないのか、列挙してください。「ダイエット食品なんか必要ない」と指摘する方もいます。そういう具体的なことを書いてください。
 必要なもののみの生産する、無駄なものは生産しない。これは社会主義を理想とする方々の皮膚感覚だと思います。けれど、「だれにとって何が必要か?」なんてことは、だれかが一律に決めることのできないものです。私はそう思います。そうではありませんか?「おれにとって必要なものも、あいつにとっては必要ではない」。そんな代物はこの世に100万とあります。だれがどうやって「これが必要、これは必要でない」を決めるのでしょう?
 「必要なもののみの生産」における「必要なもの」を列挙してください。不必要なものとは何でしょうか? それを列挙して下さい。
 あなたの基準で不必要なものとされたものを必要としている人間は社会主義においてどのような扱いを受けるのでしょうか? そうしたことを率直に詳細に議論するのが、私の言う「社会主義の青写真を示せ」の中身です。
 だれが何を必要と決めるのか? ここを明示してください。ぼんやりした言葉では困ります。ぼんやりした言葉では社会主義なんて回りません。社会主義は人間ひとりひとりの毎日の日常生活に直結する問題です。社会主義は厳然たる社会システムなんです。毎日の日常生活に直結するのです。これが必要だ、これは必要ない。これをだれが決めるのか? ここを具体的に示して下さい。具体的に示すことができなければあなたの「愛の論理」は無意味です。