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再度、待子さんへ

2001/6/21 青きドナウの乱痴気

 早速のレスありがとうございます。そしてお返事遅れて申し訳ない。無視してたわけじゃないんですが、まとまった時間がなかなか取れなくて・・・
 さて、待子さんの〈愛〉に対するイメージ、よく分かりました。僕も「人を愛するには、まず、知る事から始めねばなりません」というご意見には大賛成です。例えば、凶悪犯罪などが起こると、世の中ではよく「被害者=可哀想、加害者=憎き悪人」というイメージができあがります。そして「被害者の気持ちを考えると・・・」などという言葉がまかり通ります。しかし、人間はお互い別人格を持つ以上、他人の気持ちをそう簡単に理解できるはずなどないのです。気分に流され、安易に当事者の気持ちが分かったつもりになること、それは最も避けるべき事だと思います(もちろん、理解しようと努力することを否定するものではありません)。むしろ、当事者でない我々は、知性を働かせ、何が起こったかを的確に判断すること、そうすることで、初めて我々は当事者の気持ちを理解するスタートに立つことができるのだと考えています。
 しかし、文鳥さんの裁判に関して言えば、その本質をどのように判断するかが、僕と待子さんとでは異なっているように思います。待子さんや、4月15日のjinさんや、6月19日の安置ヴェーバさんなどはこの裁判の本質を〈党と党員の関係〉として捉えてらっしゃいます。しかし、文鳥さんが提示してくれている文書を読む限りでは、僕にはその本質が〈セクハラ裁判〉にしか思えないのですが。確かに〈党と党員の関係〉という側面はないことはないと思います。とはいえ、少なくとも文鳥さん本人にとっては「信頼している仲間」からセクハラを受け、それを「信頼する組織」に相談してもまともに取り合ってくれない、そのことを苦に裁判を起こされているのではないでしょうか(お連れ合い様や娘さんには別の争点があるのだと思いますが)。それがたまたま、共産党員によるセクハラを共産党がもみ消そうとしたから起こっただけであって、自民党であろうが、公明党であろうが、公務員によるものだろうが、学者によるものであろうが、事の本質はそんなに違わなかったのではないかと思われます。
 実は僕の知人も同僚からセクハラを受け、そのことを周囲に相談しても、「そんなことは当人同士で解決してくれよ」などといわれ、まともに取り合ってもらえなかったといいます。しかも、「痴話喧嘩」ということにされ、周囲の無理解による〈二次災害〉を受けて、それはセクハラ被害そのものと同じくらいイヤな思いをしたと言っていました。僕もその当時できるだけのことはしましたが、いまだに彼女はその時の不快感を忘れられないでいるようです。
 僕はこういう問題に関しては男よりも女の方が理解できるのではないかと思っていましたので、待子さんの発言に驚きを感じたのです。どうでしょう。待子さんはセクハラ被害に関してはどのようにお考えですか。
 それから、待子さんはキリスト教徒ではなく弁証法的唯物論者だそうですが、僕は弁証法には賛同しかねる箇所があります。というのも、弁証法というのは、ある意味〈代理=表象システム〉であり、そこでは個人の意見が階級なり集団なりの意見に還元されてしまいます。それは結局個々の意見がもつ微妙な〈差異〉に着目しないことであり、人を愛することにつながらないのではないかと思います。まあ、弁証法をどう捉えるかによるんでしょうがね。待子さんは弁証法という言葉にどのような具体的イメージを持っているのでしょうか。