6月10日の待子さんの文鳥さんへのレスには疑問を感じます。
待子さんは6月10日付の投稿で「(辛酸)さんは許された党内闘争の結果報告」とおっしゃいますが、僕は辛酸さんも文鳥さんもともに、組織による個人攻撃に対して泣き寝入りせずに断固として闘っておられるという点に関しては同じだと思います。
それに、待子さん自身3月1日付「辛酸さんの話について」において、辛酸さんの話には疑問を感じると書いていました。その発言をよもやお忘れではないでしょう。もし、辛酸さんのキリスト教徒だとの告白(5月1日付の辛酸さんの投稿)により御自分の意見をかえ、同じ宗教を信仰する辛酸さんは誉め称え、そうでない文鳥さんにはひどい発言をされる(実際、待子さんの発言は被害を受けた方に対する思いやりに欠けています)とするならば、待子さんが常日頃おっしゃっている〈愛〉というものにも疑問を感じざるを得ません。
僕自身の発言も、人生の大先輩に対して非常に失礼なものであり、「この若輩者が!」と怒ってらっしゃるかもしれませんね。しかし、僕は〈愛〉というものを「異他なるものに対する共感、想像力」と考えているからこそ、それに反する待子さんの発言には反論せざるを得ませんでした。
イエスは「汝の隣人を愛せよ」と言っていますが、ここでいう〈隣人〉とは抽象的な「人類」のことではありません。「人類みな兄弟」――こんなことはどこぞのA級戦犯でも言うことができます。そうではなく、より具体的で血肉を帯びた「隣人」――つまり、ときに喜びも悲しみも共感しあいながらも、ときには傷つけあい憎みあう、自分の間近に生活している人々――を受容し、理解することはとても難しいことです。「遠くの〈人類〉を愛せても、近くの〈隣人〉は愛せない」ものです。その難しいことを実行しようとしたことにより、キリスト教は、ユダヤ教という民族宗教から世界宗教へと達し得たのだと私は考えています。
待子さんからしたら、文鳥さんは自分が支持する共産党に対して攻撃を加える「反党分子」「分派分子」に写るかもしれません。しかし、なぜそうせざるを得なかったのかについて想像力をめぐらせる必要があるのではないでしょうか。僕自身、様々な運動を通して、同志や大衆に失望から運動体を離れ、むしろそれを攻撃する勢力に加担するようになってしまった人たちをたくさん見てきました(有名人でいえば西部邁などが良い例でしょう)。そんな人たちと比較すれば、ひどい目に遭いながらも党内に踏みとどまり、党内を風通しのよいものにしようと奮闘してらっしゃる文鳥さんも辛酸さんもともに強い信念を持つ方だと思います。マザー・テレサもヒンズー教徒の多いインド・ベンガル地方を中心に、キリスト教徒か否かに関わらず、人々に愛を注ぎ続けたではありませんか。我々も見習いたいところです。
以上のことを申し上げたくて、思わず筆(?)をとりました。失礼がありましたら御容赦の程を。
それから文鳥さんへ。裁判闘争を起こすとなると、特に党内から批判が多いと思います。「あなたが言いたいことは分かるけど、裁判なんかしても最終的に反党勢力に利することになるだけだ」というような。しかし、党内に自浄能力がないなら、外部の力に頼るのは戦略的に間違ったことではありません。僕には何もお手伝いできませんが、お互い自分の持ち場で頑張っていきましょう。では最後に、ダンテの言葉を贈ることによりこの文章を締めくらせてもらいます――「汝の道を進め、そして人々の語るに任せよ」。