大阪の小学校児童殺傷事件に関連して、共産党が小学校に警備員を配置することを申し入れたという話と、共産党が自衛隊に反対していることとが、あたかも矛盾しているかのように主張する「警備員」氏の投稿(6月29日付)に反論したい。
まず、そもそも一個人の犯罪と国家の侵略とを同レベルにおいて論じることは、きわめて恣意的であり不正確である。よく、突然、見知らぬ他人が刃物を振るって襲ってくるかもしれない、という論理と、どこかの国が侵略してくるかもしれないという論理とが同列に並べられて、国家武装の必要性が説かれるが、それはまったく誤っている。一国家の行動は、理性を失った一個人の行動とはまったく異なった原理にもとづいている。そのことを確認した上で、それでもなおかつ、国家の侵略の問題と、市民社会における犯罪の問題とを強引に類推したとしても、「警備員」氏の議論は成り立たない。
同投稿は、世界には侵略者がごまんといるとして、ヒトラーやムッソリーニと並んで、日本軍国主義を挙げている。戦後日本は、その日本軍国主義の後継国である。その日本が武装するとはいったいどういうことか? わが日本は、警備員を配置しようとしている無防備な小学校とはまったく似ても似つかない。むしろ日本は、児童殺傷事件の犯人の方にはるかに近い。戦前に侵略戦争を繰り返した日本が、自衛の名のもとに再武装するのは、刑を終えて出てきた同犯人が、誰かに襲われるかもしれないという理由で再び出刃包丁で武装するのとよく似ている。
もう少し適切な比喩を用いれば、現在の日本は、数十人もの罪ない人々をテロったオウム真理教の後継団体アレフにきわめて近い。戦前の日本は天皇真理教の国だった。天皇の命令はすべて絶対であり、その命令によって大日本帝国は周辺国に無差別テロを行ない、数千万人もの人々を死に追いやり、傷つけ、財産を奪い、婦女子を陵辱し、蛮行の限りを尽くした。天皇真理教の国はついに御用となり、名称が大日本帝国(オウム)から日本(アレフ)に変わり、その幹部教団員は処罰されたが、オウム真理教と違って、その最高指導者は罰せられず、戦後も象徴として君臨しつづけた。オウム真理教よりひどい。戦後日本を指導した政党(自民党)は、戦前の侵略戦争を推進した勢力と同じであり、しかも、戦後になっても戦前への郷愁がなくならず、侵略国家日本に課せられた新憲法を改訂しようと必死になってきた(党是としての改憲)。いまだにまともに反省の色はなく、戦後50年経って村山内閣の時にようやく形式的な反省の決議を挙げただけである。
日本の武装を支持することは、アレフの武装を支持することと同じである。いや、それ以上に破廉恥なことだ。過去の犯罪に対するまともな反省もせず、当時の最高指導者も処罰されず、過去の犯罪で命を落とした「団員」たちを英霊としてたてまつり、現在の最高指導者(小泉)がその英霊を祭った神社に公式参拝しようとしている。同じことをアレフがしていたとしたらどうだろうか? アレフが、サリン散布作戦に参加した団員たちを「英霊」として祭っていたらどうか? その英霊に現在の最高指導者が毎年「公式」参拝していたらどうか? アレフの主要幹部の一部が、過去のサリン事件は防衛のためのやむをえない行動だったと今なお主張しつづけていたらどうか? そして、そのアレフが、小学校に警備員を配置するのが正しいのなら、われわれも再びサリンで武装して何が悪い、と主張したらどうか? 血も涙もない人間の屑のような男に襲われた小学校が警備員を配置するのは、同じように血も涙もない屑国家であった戦前の大日本帝国によって襲われた近隣諸国が自衛のための軍隊を配備するのと似ている(もっとも、配置される警備員は別に武装するわけでないので、この比喩は不正確だが)。反対に、襲った側の日本が再武装するのは、オウム真理教の後継団体アレフがサリンで再武装したり、児童殺傷事件の犯人が出所後に再び出刃包丁で武装するのと似ている。したがって、小学校に警備員を配置することに賛成することと、日本の武装に反対することとは、けっして矛盾しない。
また、「警備員」氏は、悪辣なアメリカ帝国主義を持ち出している。たしかに、アメリカ帝国主義は悪辣だ。だが、日本の武装はいったいそのような悪辣なアメリカ帝国主義に対して向けられているのか? いや、両者は手を結んで、過去の被害国に対してその武器を向けている。たとえて言えば、再武装したオウム真理教と以前から武装しつづけている広域暴力団山口組とが手を結んでいるようなものである。広域暴力団山口組が武装しているからといって、オウム真理教の再武装を認めるべきだという話にはならない。逆である。両者が手を結んでいるとすれば、当然、オウム真理教の再武装はなおさら許されるべきではない。
過去のあの恐るべき侵略戦争の犯罪歴を持つ日本の再武装は、未来永劫許されるべきではない。侵略戦争に対する真の反省は、二度とけっして軍隊を持たないこと、憲法9条を文字通り守ることでしか示すことはできない。言葉の上での反省など誰にでもできる(その言葉の上での反省すらまともに行なわれていないが)。真の反省は、ただ軍隊を未来永劫持たないことでしか示すことはできない。アルコール中毒が原因で連続殺人事件を犯してしまった犯人が真に反省するためには、今後一滴もお酒を飲まないという態度を実践において示すしかない。車を暴走させて、子供たちの列に突っ込んで数十人の子供をひき殺した犯人が本当に反省するためには、二度と車に乗らないという態度をしっかり守るしかない。同じことは日本についても言える。日本がその真の反省を示すためには、二度と軍隊を持たないこと、そして本当は、二度と天皇制も持たないことが必要である。