大塩さんと編集部のS・Tさんから私の投稿に対する反論を頂きましたが、返答が遅くなって申し訳ありません。まずお二人から頂いた反論を踏まえて私の考えを再論致しますが、ここでは問題の中心的な点に限って論ずるようにして、その他の周縁的な問題は別稿で補足するようにします。
まず16日付の投稿における私の主張を確認しますが、ここで言いたかったのは次のこと、すなわち、「さざ波通信」が端的に党への支持を訴えずに一般的なスローガンを掲げることにはいかなる意味があるのか、という疑問です。換言すると、あのスローガンは党員や一般有権者を党から遠ざける役割を果たすものではないかと私は考えたわけです。もちろんここで問題にしているのは、これによって実際に共産党の得票がどれだけ減るかといったことではありません。そのような意味での影響はたかが知れているでしょう。私が問題にしたのは、現在の政治状況において現役共産党員がとる姿勢としてそれが相応しいものなのかどうかという点です。
ただ、このような問題設定をする際に、私は一つのことを前提にしていました。それは、党員は無条件に党に投票し、また党への支持を訴えるべきである、ということです。この点について、S・Tさんから「唯一前衛」論ではないかとのご批判を頂きました。私が党員にサボタージュ権を一切認めていなかった根拠は「唯一前衛」論とはまったく次元の異なるものでしたが、ともかく検討の結果、現実の政治社会状況を完全に捨象して一般論として言うならば、党員のサボタージュ権は認められうるという結論に到りました。したがって私が16日付投稿で述べた「党員が党への不支持を呼びかけるようなことは絶対に許されない」という点は撤回させて頂きます(「今日の状況においては」という留保をつけるならば依然として有効なテーゼだと考えていますが)。ともあれ、私が言いたかった事柄そのものの骨格は揺らぎません。理論構成を若干修正したかたちで再論させて頂きます。
「さざ波通信」の件のスローガンは客観的に党への不支持を呼びかける役割を果たすのではないかという私の問題提起に対しては、二通りの反論が考えられます。一つは、「そのような役割は果たさない」というものであり、もう一つは、「党への不支持を呼びかけることは間違いではない」というものです。私の読んだ限りでは、大塩さんは基本的に後者の立場に立っておられるようですが、これはある意味で分かりやすい立場です。けれどもこの点に関するS・Tさんの立場は、私にはかなり曖昧なものに思われます。
問題のスローガンは党への不支持を呼びかける性格を持つのではないかとの私の指摘に対して、S・Tさんは「それは、かなりうがった見方であり、こう言っては何ですが、いささか官僚的な見方です」と反論されています。なぜなら、党に投票するような選択に関しても「われわれのスローガンは、そのような選択をも排除」していないからだ、というのです。確かにあのスローガンはそれ自体では共産党を排除するものではありません。しかしこのスローガンがほかならぬ共産党員によって、それも党のあり方に批判的な姿勢を一貫してとってきた共産党員によって掲げられたならば、それはむしろオルターナティブを暗示する(共産党を忌避する)含意をも持つものとならざるを得ないのではないか、というのが私の問題提起でした。いずれにせよ、上の反論によれば、件のスローガンは決して党への不支持を呼びかけるものではない(党への支持の呼びかけという意図があったのかどうかは不明ですが)ということになります。
ところが他方で、S・Tさんは次のようにも言われています。
日本共産党員なら選挙のたびに必ず共産党およびその候補者に入れなければならない、ということにはなりません。それは非常に機械的な考え方です。
われわれは、現役の党員や支持者の中に、今回は共産党への投票を見送るという選択をあえてする方が実際にいると思っています。それは、党内民主主義がほぼ完全に制圧されているもとで、党員が自らの抗議の意思を実践的に示すほとんど唯一の形態です。それは、けっして裏切り行為ではなく、これらの人々がそのような選択をしたとすれば、その責任は彼ら・彼女らにあるのではなく、そのような選択をさせた党指導部にあります。責められるべきは、指導部です。われわれは、そのような選択を積極的に勧めることはしませんが、しかし、そのような選択を頭から排除するつもりもありません。
確かにS・Tさんは、共産党員が自党を忌避することを「積極的に勧めることはしません」と仰ってはいます。しかし同時に、共産党員とて自党を忌避する権利はあるし、また「そのような選択を頭から排除するつもりも」ない、と仰っています。ここには共産党を忌避する共産党員への同情ないし連帯の意思があるように思います。それだけではありません。
この基準に合致している政党や候補者が他にいて、そして、共産党が今日、あれこれの面で大きな後退と右傾化をしているとすれば、一時的・戦術的な投票先として、他の革新的政党や革新的候補者に投票することが間違いであると、なぜ言いうるのでしょうか? そのような選択の可能性を念頭におき、そのような選択を排除しない形のスローガンを提起することが、どうして共産党員にあるまじき行為になるのでしょうか?
「一時的・戦術的な」手段として共産党員が共産党を忌避することは認められるべきだし、あのスローガンはそうした行為を「排除しない」ものだったというわけです。これは要するに、あのスローガンは参院選において共産党以外の選択肢があることを示唆するものだったということではないでしょうか。そしてほかならぬ共産党員が共産党以外にも選択肢があることを示唆するということ、これは客観的には党への不支持を呼びかけるのと同じ役割を果たさないでしょうか?
念のために言っておきますが、私は「さざ波通信」編集部の主観的意図を問題にしているわけではありません。私自身は「さざなみ通信」からは学ばされることばかりで、編集部の党に対する真剣な姿勢を疑うつもりなどはまったくありません。この点につき、私が「さざ波通信」に「陰謀、謀反、裏切りの匂いをかぎつけた」というのはまったく的外れな指摘です(失礼ながら、それこそ陰謀的な「うがった見方」ではないでしょうか?)。しかし編集部の意図がどうあれ、それがどのように理解され、あるいは誤解されるかということはまた別の次元の問題です。
私がS・Tさんの姿勢は「曖昧だ」といったのは、「さざ波通信」が今回の参院選で共産党に躍進して欲しいと考えているかどうかがまるで見えないからです。一般論ではありません。一般論としては「お灸」論もアリだと認めますし、階級的観点から「より大規模で根本的な歴史的利益」を擁護するための「戦術的な行動」として、共産党員が党を忌避することが「先見の明」ある行為であるような可能性を私は否定しません。しかし具体的に、今回の参院選で日本共産党が伸長するか、あるいはどうにか現状を維持するか、あるいはやはり後退してしまうのか、これがいま問題になっているわけです。結論的には、残念ながら後退する公算が高いのかもしれません。そしてそのあかつきには、「さざ波通信」は雄弁な分析をされることだろうと思いますし、またその分析の大部分は正当なものだろうと思います。しかし、「さざ波通信」自身がその結果に対していかなるコミットをするのか、これがまったく見えないのです。イタリア総選挙の結果ならば、第三者的に論評するのもいいかもしれません。けれども問われているのは、ほかならぬ私たちの選挙です。それどころか「さざ波通信」編集部の方々は現役の党員であるわけです。選挙結果がいかなるものになるのかということに関して、「さざ波通信」は傍観者ではなく、まさにそれに参与しているはずなのです。一つひとつの発言、スローガン、こうしたものがすべて、結果に対するコミットメントとなっているのです。したがって仮に党が後退したとしても、「さざ波通信」が党への支持を訴えた上でその結果を分析するのと、他の選択肢を示唆するに留まって結果を分析するのとではまったく意味が違います。後者の場合、(客観的に)党の後退という結果にコミットしておきながらその敗因を分析する、ということにならざるを得ないでしょう。
S・Tさんは、党員が党を忌避するということは一概に批判されるべきではないと繰り返し仰います。「一概に批判されるべきではない」というのは認めましょう。問題は、今回の参院選でどうなのかという点です。今回の参院選で「党員が自らの抗議の意思を実践的に示す」ことが求めらているのか、また「一時的・戦術的な投票先として、他の革新的政党や革新的候補者に投票する」ことが求められているのか、ということです。この問題に対しても、S・Tさんの見解はさっぱり分かりません。そうしたことはあり得るし、あったとすれば指導者の責任なのだ、というところで留まっておられます。仰ることは分かります。私が知りたいのは、仰っていないことの方なのです。いまこの時点で、批判的党員は党指導に対する「抗議の意思」を示すべきなのか、また他の革新政党に投票すべきなのか、こうしたことです。ところがこうした問題になるとS・Tさんの筆はたちまち曖昧になって、「われわれは、どの党、どの候補者に入れるべきかの選択を『さざ波通信』の読者自身に委ねます」とか「われわれは、そのような選択を積極的に勧めることはしませんが、しかし、そのような選択を頭から排除するつもりもありません」とお茶を濁すような結論に終わっているのです。行動は読者が決めるべきだというのはまったく自明のことなのであって、問題は、それを訴える人間(この場合「さざ波通信」編集部ないしS・Tさん)がどのように考え、事実上どのような結果に対してコミットしているか、ということです。
S・Tさんは、「党員に自主的に考える機会・材料、討論する場を与えるためにこのサイトを運営している」と言われます。確かにその通りでしょう。しかし言うまでもなく、「さざ波通信」は普遍不党の立場などではなく、ある意味でかなり特異な特定の立場(私はこれを基本的に支持しています)に自覚的に立っているわけです。そのメッセージは単なる材料の提供にはとどまらず、そこから様々な実践的な意味が生じます。S・Tさんは、あのスローガンは共産党への不支持を呼びかけるような意図はないと仰います。おそらくその通りでしょう。しかし、共産党員が共産党への支持を訴えずに、あのような一般的なスローガンのみを掲げるならば、何ほどかの実践的な意味が生ずるだろうとはお考えにならないでしょうか?
今回の参院選に関するS・Tさんや「さざ波通信」自身の姿勢は分かりにくいものですが、私は共産党の躍進こそが革新派によって最良の選択であると確信しています。これはセクト主義ではありません(そもそも私はこの「セクト」から放逐されています)。「お灸」論でもって共産党を後退させる(S・Tさんがこの立場かどうかは不明ですが)などというのは、まともな政治的判断だとは私には思えません。S・Tさんは「この基準に合致している政党や候補者が他にいて、〔…〕とすれば、」と仰っていますが、候補者はさて措くとして、そのような政党が実際にあるとお考えなのでしょうか? もしそうなのであれば、これはかなり重大な問題です。ほかならぬ共産党員が「いや、共産党以外にもオルターナティブがあるぞ」と言っているのと同じわけですから。示唆するに留めずに展開して頂かなければ、それこそ「説明不足」です。
S・Tさんも大塩さんも、共産党の様々な欠陥を指摘され、したがって党員が他党への投票へと回ったとしてもやむを得ないと言われておます。党の非民主主義的な問題などに関しては、私自身も言わば「被害者」の一人であり、ほとんど同意します。しかし、です。いま、暴力的な新自由主義とポピュリズムが社会を席巻しているこの時代に、党外から共産党に希望を託している多くの有権者に対して、共産党員自身が「いや、不破指導部にお灸を据えるのが先決だ」などと言うことが果たして許されるのでしょうか? 今回の選挙は共産党指導部への信任不信任が争点になっているわけではないし、そもそも一部の批判的党員が共産党に「お灸をすえ」たところで党の体質改善にはまったくつながらないでしょう。この問題は、差し当たり別の手段で解決を図るべきなのです。ここで「主要な矛盾と副次的な矛盾」という毛沢東の定式を持ち出すのは必ずしも適切なことではないかもしれませんが、参院選での投票行動というきわめてアクチュアルなテーマに関して共産党以外の選択肢を示唆するようなスローガンを掲げるのは、「主要な矛盾」を見誤ったものなのではないかと私には思われます。
それから「党批判の説得力を弱める」という点についてですが、これも分かりにくい話です。「さざ波通信」がこれまで一貫して党の現状に対して批判的であったことは、「さざ波通信」の読者にとってはあまりにも自明のことでしょう。「共産党指導部の堕落をきわめて危機的に感じている党員層にとっては、そのような無限定な党支持のスローガンは、日和見的で裏切り的なものに見えるでしょう」と言われますが、どうして選挙での投票を訴えたくらいで「無限定な党支持」になるのでしょうか? 党に投票を呼びかけることは党を批判することと競合することなのでしょうか? 共産党から「ニセ左翼集団」と一刀両断にバッサリやられた第4インターの革共同でさえ「共産党、社民党、新社会党などの候補への投票」を呼びかけています。確かにこれは、無条件に「共産党」への投票を訴えたわけではなく、党の弱点を指摘した上で、いわば「よりまし」の選択肢として、それも社民党・新社会党との抱き合わせでの「推薦」です(昨年の総選挙では政党としては共産党が独占的に推薦を受けていましたが)。しかし「さざ波通信」の場合は、「無限定な党支持」どころか限定的な支持すらも与えていないのです。なぜ共産党員自身が運営するサイトがひとことも党への投票を呼びかけられないのでしょうか?
確かにあのような小さいスペースで「さざ波通信」の立場を正確に示そうとするならばいまのようなスローガンにならざるを得ない、というのは理解できないわけではありません。しかし、参院選に向けての「さざ波通信」の立場が表明されているのは、ただあの箇所のみです。「バナーという手段の性格上、日本共産党への支持を直接訴えるスローガンだけを掲げることは、説明不足の感が否めない」と言われるのであれば、他の個所で十全な説明をすべきではないでしょうか? S・Tさんは、「われわれは、共産党の選挙活動のためにこのサイトを開いているのではな」いと仰いますが、私もそのくらいのことは承知しているつもりです。何もこのサイトに選挙活動を求めているわけではありません。ただ、にもかかわらず、あのスローガンはまさに選挙での特定の投票行動を呼びかけるものだったのです。サイトの目的が何であろうと、ともかく選挙向けにスローガンが掲げられている以上は、それが客観的に果たすであろう意味が問われるのは当然のことではないでしょうか。
うまく考えをまとめられなかったために徒らに長くなってしまいましたが、私が言いたかったのは結局次のことに尽きます。すなわち、「さざ波通信」自身が今回の参院選の結果に対していかなるコミットをするつもりなのかがまるで分からないということ、しかもその一方で、掲げられているスローガンは事実上共産党の後退に対してコミットするものとなっているのではないかということ、そしてさらに、そのようなコミットメントは今の政治状況の中で本当に妥当なものなのかということ、以上です。