今回のS・Tさんの投稿で、私が問題にしてきた「参院選は、小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党と候補者に投票を!」とのスローガン(以下、「護憲・革新スローガン」と呼びます)が念頭に置いている政党が共産党および新社会党であることが誤解の余地なく明らかになりました。そこで、以下、新社会党への投票呼びかけをも含意するスローガンが共産党員によって掲げられることの意味について、さらに論じたいと思います。
最初に断っておきますが、私は新社会党を否定するつもりはまったくありません。私はS・Tさんとともに「新社会党が、共産党と同じく、小泉改革と対決し護憲と革新の旗を守っていることを承認する」のもやぶさかではありません。したがってまた、そのことが「共産党への不支持を訴えることと同じ役割を果たす」と言ってるわけでもないつもりです。ここで問題になるのは新社会党への全体としての評価ではありません。「護憲・革新スローガン」は、共産党員が選挙向けに掲げるスローガンとして適当なのか、ということです。換言すれば、共産党員がある特定の投票行動を呼びかけるとするならば、それはどのようなものであるべきなのか、ということです。
S・Tさんは次のような例を挙げられます。
A選挙区では、革新系候補者として共産党だけが立候補者を出しているとしましょう。B選挙区では、革新系候補者として、共産党と新社会党が立候補しているとしましょう。共産党への不支持を呼びかける立場からすれば、この両選挙区において、共産党に投票しないという選択が生じます。それに対して、われわれの「小泉改革に対決し、護憲と革新の旗を守る候補者に投票を」という立場からすれば、Aの選挙区では共産党候補者に投票することになり、Bの選挙区では、共産党候補者と新社会党候補者のどちらに投票してもいいが、さまざまな要素を考慮して投票するべきだという結論になるでしょう。この違いはあまりにも明瞭なものではないでしょうか。
「護憲・革新スローガン」の立場では選挙区Aにおける共産党候補への投票を妨げるものではない、というのはまったく仰る通りです。私は何も「護憲・革新スローガン」は党の全面的かつ無条件な不支持にほかならないなどと言っているのではありません。私が問題にしているのは比例区や選挙区Bのことです。仮に共産党と新社会党が「護憲と革新」の基準では権利上同格だとしますと、このスローガンは選挙区Bや比例区における選択基準をまったく示しません。ところが選挙区Bおよび比例区では、共産党と新社会党が競合しますので、どちらかを選択しなくてはなりません。S・Tさんが、肝心なのは「護憲と革新」の陣営が伸びることだと言われるのは十分に分かるのですが、ここからはどちらを選ぶべきかの結論がまったく出てきません。「共産党候補者と新社会党候補者のどちらに投票してもいいが、さまざまな要素を考慮して投票するべきだ」と言われますが、その「さまざまな事情」の説明がないのです。私はここを説明していただきたいと言ってきたつもりなのですが、それがなければ「護憲・革新スローガン」はどうしても「新社会党でも共産党でもどちらでもいいよ」というメッセージとなってしまいます。そしてそれが共産党員によって唱えられたならば、(意図を超えて)ある言外の意味を持ってしまうのではないか、というのが私の論点です。
S・Tさんは、新社会党員が「護憲・革新スローガン」を掲げた場合にも新社会党への不支持の呼びかけとなるのかと言われますが、新社会党と共産党は非対称的な関係にあります。新社会党は比例区および一部の選挙区(15箇所)で候補者を擁立しているだけですが、共産党は比例区および全選挙区で候補者を擁立しているという事情があります。したがって新社会党員が「護憲・革新スローガン」を掲げた場合、確かに「選挙区A」では暗に共産党への投票を呼びかけるものとなるでしょう。これは十分に統一戦線のスローガンとなりうるものです。ところが共産党の場合、比例区はもとより選挙区でもすべてに候補者を立てている(これが正しかったかどうかは別問題ですが)ために、新社会党にとっての「選挙区A」に該当する選挙区がまったく存在しません。したがって新社会党の支持者は新社会党を全面的に支持しつつ共産党に投票することが可能ですが、共産党の支持者には同じことはできません。まったく同様に、新社会党員は比例区および候補者を擁立しているすべての選挙区において遺漏なく新社会党に投票することを呼びかけつつ、他の選挙区において共産党へ投票するように呼びかけることが可能ですが、共産党員が新社会党への投票を呼びかけることは、論理必然的に共産党への忌避の呼びかけとなってしまいます。積極的に新社会党への投票を呼びかけるのではなく、新社会党への投票を排除しないような呼びかけをすることについても理屈としてはまったく同じです。新社会党への投票が論理的に共産党候補への忌避を意味する以上、それは共産党候補への忌避(を排除しない選択)への呼びかけという含意を持たざるを得ないでしょう。
新社会党を革新陣営のパートナーとして認めることは重要なことだと思います。この点で共産党がセクト主義的な姿勢をとってきたということは確かだと思います。しかしそのことは、共産党員(や支持者)が共産党への投票を呼びかけることと対立・競合することなのでしょうか? 共産党員が共産党への投票を呼びかけることがセクト主義なのでしょうか? 仮に選挙協力が実現していたり、あるいは共産党が候補者を出していないが新社会党が候補を立てているというような選挙区が存在するのなら、私は「護憲・革新スローガン」にケチをつけることはなかったでしょう。完全に正しいスローガンだと言ってもよかったかもしれません。しかし実際にはそうではありません。比例区および15選挙区において、新社会党と共産党とがまさに競合しているのです。このとき、「新社会党に投票するのも悪くはないが、是非われわれに投票して欲しい」と訴えるのではなく、「新社会党でも共産党でもどちらでもいいよ」と呼びかけるのでは、それはどのような効果を生むのでしょうか? もし第三者(と認識されている人)によって「護憲・革新スローガン」が出されたなら、私はそれを肯定的に受けとめます。しかし普通ならば党への支持(および投票)を訴えるはずの党員が「どちらでもいいよ」と言って終わってしまうならば、それはまた違う意味を持たざるを得ないのではないでしょうか。
「新社会党よりもわれわれに投票して欲しい」と言うことは決してセクト主義ではありません。そもそも統一戦線というものは立場の違いを前提するものですし、多かれ少なかれ自らの立場がより優位なものであると主張することは、それ自体はきわめて当然のことでしょう。もしそれすらないとするならば、その党派に留まる理由が何もないはずですから。新社会党に敬意を払いつつ、選挙戦では新社会党ではなく共産党への投票を訴えるということは十分にできることなのではないでしょうか? 共産党が前者を怠っているとするならば、「さざ波通信」は後者を怠っていると私は思います。私が「ほかならぬ共産党員」と言ったのは、共産党員が共産党への投票を呼びかけるのは――よほどの異常事態を除けば――ごく自然なことだからです。ここには「唯一前衛」の含意などは微塵もありません。
「さざ波通信」が「護憲と革新」の基準を重視するのは、それ自体は筋の通ったことだと思います。したがって選挙結果を分析する際に共産党と新社会党の得票を合計するのは正しいことだと考えます。しかし、次のように言われるのを見ると私は違和感を覚えます。
たとえば、共産党の得票数が前回より100万票減り、その代わりに、新社会党が100万票得票を増やしたとすれば、われわれはその結果を、共産党の後退にもかかわらず、護憲・革新勢力が全体として勢力を維持したものと評価するでしょう。嫌煙家氏は、以上の結果を、共産党の後退という一点からして不幸な結果とみなすのでしょうか? そのような態度はやはり、セクト主義であると言わざるをえません。
合計得票が変わらずに、かつ、合計議席も変わらないのであれば、確かに「護憲・革新勢力が全体として勢力を維持したものと評価する」のは正しい分析でしょう。全体として勢力を減らすよりはいいに決まっています。ここには異論はありません。しかし私は総合的には共産党の方が新社会党よりもはるかに優れていると考えるので、「護憲・革新勢力が全体として勢力を維持」したとしても、「共産党の後退」という事柄自体はやはり「不幸な結果」だと思います。それは護憲・革新勢力の全体が勢力を維持したということを肯定的に評価することとは何ら対立するものではありません。このときの正しい評価は、こうです。われわれは後退した。これは確かに不幸なことだ。しかし、護憲・革新勢力全体では維持している、つまり政治の根本的な対決としては敗北したわけではないのだ…。この考えのどこにセクト主義があるのでしょうか? ベストの結果は、共産党も前進して他の護憲・革新勢力も前進することです。しかし護憲・革新勢力全体が現状維持だという前提のもとでは、共産党が前進して他の勢力が後退することの方が、その逆よりもベターだと私はためらわずに言えます。それは私がセクト主義者だからではなくて、共産党の支持者だからです。新社会党の支持者ならば私とは逆のことを言うでしょう。私はそれをセクト主義だとは思いません。セクト主義とは、自らのセクトの勢力の浮沈を<唯一の>指標とするような立場のことではないのでしょうか?
S・Tさんは、「護憲・革新勢力が全体として勢力を維持」するならば「共産党の後退という一点」は「不幸な結果」ではないとお考えなのでしょうか? 私にはS・Tさんがそのように考えておられるとは思えないのですが、もし仮にそうだとするならば、確かに「護憲・革新スローガン」が掲げられた理由は完全に納得がいきます。
なお「護憲」の問題については、前回の投稿でも書きましたが、やはり私とS・Tさんとの間に深刻な対立は一切ないようですので、これ以上述べる必要はないかと思います。今回のS・Tさんからのご回答には、私から特に反論することはありません。