現在、道路特定財源の一般財源化が話題にのぼっています。これは以前より、共産党や市民運動の側が要求していたものですが、なぜか小泉改革の目玉としてもてはやされています。
道路特定財源というのはもともと、道路建設にかかわる費用を車にかかわるさまざまな税金から調達するという発想にもとづくものでした。たとえば、自動車取得税は地方の道路特定財源に、自動車重量税はその4分の1が地方道路特定財源に、ガソリン税のうちの揮発油税は国の道路特定財源に、ガソリン税のうちの地方道路税は地方の道路特定財源に、軽油取引税は地方の道路特定財源に、石油ガス税は2分の1が国の道路特定財源に、残り2分の1が地方の道路特定財源に、というふうになっています。
この道路特定財源制度は、道路の建設にかかわる費用を、自動車を直接に取得ないし利用する人々に負担させるという受益者負担原則にもとづいていており、最初のうちは、むしろ積極的意味を持っていたのですが、自動車の取得と利用がこの数十年間で猛烈に増大していったことで、当初の積極的意味が失われ、逆に、道路建設の必要があろうとなかろうと、ひたすら道路建設を拡大していく自動装置のようなものに転化してしまいました。
そこで環境破壊や公害問題が重視されるようになった1980年頃から、革新政党や市民団体や環境系の研究者は、道路自動拡大装置になっている道路特定財源制度の見直しを主張するようになりました。しかし、道路関係の族議員がうじゃうじゃいる自民党は、まだまだ日本の道路は少ないとして、国中をセメントだらけにし、いたるところに大規模高規格道路を建設し、クルマ社会をますますひどくし、公害を蔓延させ、国民の安全と健康を破壊してきました。ディーゼル車規制にはなばなしく着手した石原都政も、この道路行政に関しては何ら既存の利権政治と変わりません。
言ってみれば、いまごろ改革の目玉として道路特定財源の見直しを掲げるのは、盗人猛々しいというべきなのです。この20年間における怠慢のせいで、いったいどれだけの人々が傷つき、殺され、健康を破壊され、自然環境が取り返しのつかない打撃を受けたことか。それに対する根本的な反省も補償もなしに、市民運動の側が主張してきたことをかすめとって自分の手柄にするというのは、まったくもって許せないことです。罪のないハイエナもびっくりです。
では、道路特定財源制度をいったいどうするべきか。これは当然、抜本的に見直すべきですが、単純に一般財源化するのではなく、国民の福祉と安全の増進および公正な交通体系の確立に振り向けるべきです。そのなかでもとくに次のような課題に重点的にあてるべきでしょう。
1、地方の公共交通機関の充実にあてること……道路特定財源の一般財源化は「地方切り捨てになるのではないか」という不安を地方自治体に引き起こしています。そのような危惧を取り除き、本当の意味で安全で公正な交通体系を築くためにも、これまでのようなマイカー中心の交通体系ではなく、公共交通機関の抜本的な充実をはかるべきです。地方では、国鉄の民営化、過疎化のいっそうの進展、ますます進行する高齢化などせいで、路面電車やバスのような公共交通機関がすっかり衰弱し、車に頼らざるをえなくなるような状態になっています。しかし、統計表を見ればわかるように、高齢者ほど免許取得率は低く、とりわけ、女性の高齢者の免許取得率はわずか数%という低水準です。また、免許を持っている高齢者も、その年齢からして自分で運転するのは非常に危険です。実際、交通事故統計を見ても、この10年間で一番増えているのは、高齢者による交通事故です。公共交通機関が衰退し、お年寄りでさえ自分で車を運転しないと移動できないという異常な状態は、確実に高齢者の交通事故を増やしています。このような状態を改善するためにも、しっかりと税金を投入して、地方の公共交通機関の抜本的拡充をはかる必要があります。また、排気ガスのひどいバスをよりエコロジカルなものにする費用にもあてるべきでしょう。
2、道路の量的増大ではなく、既存の道路の質的改善にあてること……地方でも都市でも、既存の道路は非常に劣悪な状態にあります。ヨーロッパでは普通に見られるような人車分離もほとんどなされておらず、狭い道を車と人がお互いによけながら往来しているという信じられないような光景も日常茶飯事です。また、自転車道路がほとんど確保されておらず、自転車は歩道を走るか車道を走らざるをえない状況にあります。非常に無計画な道路建設と都市整備が生んだ悪い遺産です。こうした状況のせいで、日本では、交通事故被害者に占める歩行者と自転車走行者の割合は、欧米と比べて2倍から3倍も多いのです。最近、ようやく腰の重い国土交通省が、全国の幹線道路を新設拡張する際には自動車専用道の設置を義務付ける政令を出しましたが、これは、ヨーロッパと比べて10年以上遅れています。現在のきわめて危険で、車優先の道路状況を抜本的に改良することが必要です。たとえば、住宅地に近い道路にハンプ(道路上のなだらかなでっぱり。これがあると車はスピードを出せない)を設けること、歩道や自転車道の全面的設置、人車分離式の信号(現在の信号は、道路を横断するときの青信号で、同方向に進む自動車も発進することができ、その自動車が右左折するときに、青信号を渡っている人をはねることがよくある。とくに多くの子供が右左折する自動車の犠牲になっている。1999年だけで、右左折する自動車による横断歩行者の死傷者数は1万人以上にのぼっている。分離式信号とは、人が渡っているときには、どの方向の自動車も全面ストップさせる信号のこと。警察庁はこれまで、車の円滑な流れを妨げるとして、この分離式信号に反対しつづけてきた)の全面的導入、自動車進入禁止ゾーンの大幅拡充、などなどです。地方でも、高規格の道路をこれ以上建設するよりも、もっと既存の道路をより安全なものにしてほしいという声が多数出されています。地方では今なお、落石の危険性のある道路や、いつ崩落するかもわからないトンネルなどがたくさんあります。実際、最近、その種の災害が各地で生じており、多くの死傷者を出しています。こうした状況を改善するためにこそ、自動車関係の税金を用いるべきです。
3、交通事故防止および事故被害者救済にあてること……車両保有台数が年々増大し、それとともに交通事故の死傷者も年々増え、ついに一昨年、100万人の大台を突破しました。毎日のように、テレビでは、自動車による悲惨な事故の報道が絶えません。一部の異常者による惨殺事件ばかりがクローズアップされていますが、包丁その他の凶器で殺される人の数よりも、車で殺される人の数のほうが、何十倍も多いのです。警察は、たいていの場合、加害者たる自動車運転者の立場に立ち、ほとんどの被害者は泣き寝入りさせられています。ごく一部の勇気ある被害者家族が立ち上がって、ようやく最近、交通事故被害者の置かれている極端な無権利状況、警察の加害者擁護の姿勢が少しづつ明らかになってきつつありますが、それでもほとんどの場合は、加害者は死亡事故を起こしても不起訴か軽い罰金刑ですんでいるのです。人を1人殺して、20~50万程度の罰金刑ですむのは、おそらく交通事故だけでしょう。車の大幅な削減に取り組むだけでなく、歩行者と被害者の立場に立った、抜本的な交通安全対策、交通事故被害者救済制度の確立が不可欠です。この被害者救済の中には、被害者およびその遺族のメンタルケアも含めるべきです。多くの交通事故被害者や、あるいは家族や恋人を交通事故で失った人々は、何年も何十年も苦しみつづけています。加害者を逮捕し処罰したらそれでおしまいではないのです。道路を闇雲に増やすために使われている税金を、こうした安全対策、被害者救済策に用いるべきです。
4、排気ガス公害に対する抜本的対策……日本には7000万台もの自動車が存在し、それらが日々出している排気ガスによる大気汚染はきわめて甚大なものになっています。それらは、各種のアレルギーやぜんそくの原因になり、地球温暖化の原因にもなっています。最近、肺がんによる死者が胃がんによる死者を上回るまでに急増していますが、その主要な原因は喫煙と排気ガスです。日本の国と地方が環境対策のために支出している予算は微々たるものであり、予算の多くは借金の返済と無駄な公共事業支出に費やされています。これ以上道路を建設して、いっそう車公害をひどくするのではなく、これまでの道路・交通行政によって無尽蔵に生み出されてきた環境破壊、健康被害を改善し、これからも生み出されるであろう環境破壊と被害を最小限のものにとどめることに税金を用いるべきです。
以上のような改革は、財界とアメリカのご機嫌をうかがうことに汲々としている小泉政権にできるわけがありません。たとえ、道路特定財源が一般財源化しても、その使われ道はろくでもないものでしょう。下からの運動と批判の圧力に押されて、10年か20年遅れでのろのろと若干の改良に動き出すというのが、今の自民党政府の姿勢です。そして、そののろのろとした改良とひきかえに、悪い方向への改革(改悪)に関しては、大胆かつ迅速にやるというのが、現在の小泉改革の本質です。道路特定財源の見直しを言い出したから、小泉政権にもいいところはあるのではないか、と思う人も一部にはいるようですが、それはきわめて軽慮浅薄ではないでしょうか。