江東江戸川総支部に所属する新社会党員です。ミカヅキさんから7月25日付で、「新社会党って民主的ですか?」という質問がありましたので、私個人の意見(ごめんなさい。ちょっと長いです。)をお伝えします。
<選挙後ですから意見表明します>
この投稿が掲載されるころには、参院選の結果が出ているころでしょうから、私の意見を投稿することが利敵行為にはならないでしょう。ちなみに、この投稿は、新社会党への投票を知人に呼びかける電話作戦の合間に書いています。
<共産党よりはましか>
さて、新社会党は、かなり非民主的だと思います。しかし、大前提として、週刊「新社会」への投稿、総支部決議の都本部、中央本部への提出、「さざ波通信」への投稿を、身元を明らかにして行っても「除名」とか「除籍」とかなっていないことを見れば、その部分では「共産党より民主的」と言えるかもしれません。だからと言って、新社会党の非民主制が許されるものではないと、私は考え、その改善のために声をあげています。
<具体的に何が問題か>
新社会党でのどこが非民主的か、私が感じていることを述べます。
1、党員の討論と方針作成への参加が保証されていません。私に関して言えば、総支部内での議論は、委員長はじめ支部党員の理解のもと自由に行えているのですが、そこで論議されたり決議された内容を、都本部や中央本部、全党の仲間に伝えたり、反映させる手段が、保証されていません。党内討論誌の創刊の必要性を中央本部にも要望しているのですが反応がありません。
2、「さざ波」の読者の方は、都本部大会や中央(全国)大会で意見表明や決議案を出せばよいではないか、と考えるでしょうか。少なくとも、新社会党の中央本部の支配的な人々はそういう回答をするような気がします。*回答自体ないが・・・しかし、そうできない仕組みがあることにも新社会党の異常さがあります。つまり、都本部大会や中央(全国)大会に代議員を送ること自体に制約があるのです。新社会党には、離党の制度はあっても、除籍の制度がないのです。数年間、一度も会議や活動に参加しなくても、党費を支払わなくても、除籍されないのです。そして、党費の上納ができていない支部には、都本部大会や中央(全国)大会の代議員資格が与えられないのです。私の所属する支部では、私が入党して以来、3年以上、一度も顔をみたことのない人が党員として残っており、当然、党費は納められていず、上納もままなりません。そのことの結果、代議員資格から除外されることが恒常化しています。このことで、中央本部(の人)と論争した折、「活動に参加できなくなったり、党費を払えなくなったからと言って、除籍を制度化しようというのは、同志愛がない。他の支部でもそういうことはあるが、仲間が肩代わりしてでも支えているケースもある。」との回答?でした。私は、「封建時代の連座制じゃあるまいし、まったく納得できない」と反論し、論議を継続する(先方からの)約束でしたが、その後、音沙汰なしで今日に至っています。(勿論、大会への参加資格とは別に横断的な党内討論は保証されるべきです。)
<党内論議の不活発が、新社会党の保守的左翼性を守っている>
こうした実態ゆえに、新社会党では、ソ連東欧の崩壊以前の左翼性が生き残っているという側面がある、というのが私の考えです。幸いに、「さざ波通信」などで、選挙に対する考え、憲法に関する考えを私は表明できるのですが、本当は、党内でも全面的に討論を組織したいというのが希望です。
<しかし、政権党反共野党では、その爪先ほどの民主制もない>
こうした不満を持ち、改善のために運動していますが、公平に考えるなら、自民党や公明党、保守党や自由党、民主党や社民党には、共産党や新社会党の爪のあかほどの民主制もないのが実情だろうと思います。そして、そういう意味では、政党政治の非民主制を批判している市民運動のかなりの部分も、また違った意味で民主主義は保証されていないのでは、と疑っています。
<今後の政治の分岐点は、民主主義>
自由主義を言おうが、社会主義を言おうが、「民主主義」を言おうが、実際に発言と参加と決定の民主主義が保証されていなければ、そういった組織は批判され、克服されなければならないと考えています。そういう意味で、民主主義と社会変革のための多数派戦略を基準に、今後も党内外で発言していく決意です。
PS 離党者に対するストーカー行為は、私の周辺では見聞きしていません。