基本的にROMに徹していた者だが、この間の嫌煙家氏と編集部S・T氏との論争を読んでいて、どうも小生には理解できぬ点がいろいろあってしょうがない。その疑問をあれこれと考え、以下のように整理してみた。
1、今回の論争は、嫌煙家氏の編集部批判から始まっている訳だが、嫌煙家氏の批判の意図がどこにあるのかがどうも見えてこない。編集部のあのバナーが実は共産党への不支持を訴えているのだということを暴露し、「さざ波」の反党的性格を中央に知らせしめようということなのか。もちろん、これは、嫌煙家氏の解釈と同様、まったく「うがった見方」である。が、しかし、証明不可能な「客観的意味」なる嫌煙家氏の論法を嫌煙家氏自身に適用すれば、そういうふうにも言える。主観的意図がどうあれ、客観的な意味としては、嫌煙家氏の批判は、「さざ波」の反党的性格を公に告発しようとするものである、と言えてしまう。この主張に対し、嫌煙家氏はおそらく反駁できない。嫌煙家氏に言えるのはせいぜい、自分にはそのような主観的意図はない、ということだけである。しかし、問題は主観的意図ではなく、客観的意味なのだと言われれば、もはや嫌煙家氏は反駁不可能だろう。あるいは反駁しても、こちらから永遠に反論可能である。おそらく、問題は、嫌煙家氏があのバナーのスローガンをそのように(つまり共産党への不支持を訴えるものとして)受け取った、そのように感じられたということでしかないのに、嫌煙家氏がそれを「客観的な意味」にまで昇格させてしまった、ということにあるのではないか。今回の論争が非常に錯綜していて、第三者にとって理解しにくいのは、嫌煙家氏がはじめに、証明不可能でありかつ反駁不可能である「客観的意味」なる「論理」を持ち出してしまったことに原因があるように思われる。嫌煙家氏が「客観的」にそのような意味になることを証明しようと紙を費やすが、証明できずに終わり、逆に、編集部のほうは、そのような「客観的意味」を帯びないことを反証しようとするが、嫌煙家氏個人がそのように感じてしまったかぎりにおいて、どこまでも嫌煙家氏個人には説得力を持たない。嫌煙家氏個人が説得されない限り、論争は延々と続く。これが今の状況ではないだろうか。
2、小生自身が例のバナーを見た感想を言うと、「他ならぬ共産党員」が出しているのだから、「参院選は、小泉『改革』路線と対決し云々」というのは、まずは共産党のことを指しており、次に、場合によっては他の党や候補者にも入れるべし、というふうに理解した。もっとも、「真の」「真に」みたいな形容句があったなら、話は別である。「真の」「真に」という言い方は、往々にして、一般にそう思われているのと違う対象を暗示したい時に用いる用 語である。たとえば、「参院選は、小泉『改革』路線と真に対決し云々」というものだったら、嫌煙家氏の推測もあながち牽強付会ではないと言えるかも知れぬ。しかし、そういう暗示的文言はいっさいないのだから、素直にとれば、まずは共産党、場合によっては他の党や候補者、と理解するのが自然と思うが、いかん。
3、嫌煙家氏の一連の投稿を読むかぎりでは、なんのかんのと理屈をこねているが、結局は、共産党員(あるいは共産党支持者)なのだから共産党への支持を訴えるべき、ということに尽きているような気がしてしょうがない。嫌煙家氏は、場合によっては共産党員でも共産党に投票しない場合があることを認めているようだが、議論を具体的にするために、たとえば、どういうときなら共産党に入れない場合があるのかを、事例を出して説明していただけたらありがたい。そうしたほうが、建設的な議論になるように思われるが、いかん。
4、ぶっちゃけて言うと、いろいろな共産党員がいていいと小生は思う。どんな場合でも共産党に投票するという党員がいてもいいし、ときには投票先を変える党員がいてもいい。大切なのは、たしかに編集部の言うように、その投票の政治的基準だろう。共産党を支持するしないというのは、その党に対する総合的評価にもとづくと思う。トータルで見て共産党がいちばんまし、だが、今回の投票は、これこれの理由があって新社会党にする、あるいは社民党にする、ということはありだと小生は思う。だから嫌煙家氏が、断固として共産党に投票するのもありだと思う。しかしながら、不思議なのは、嫌煙家氏が他の選択を許そうとしないことである。しかも別に、他の党に投票しなさいと言っている訳でもない「さざ波」に、どうしてそこまで食い下がるのか、とんとわからぬ。「さざ波」が共産党を指導しているというのなら、もちろん話は別だ。党指導者が他の党に投票するのもあり、なんて態度をとったら大問題だからだ。あるいは、「さざ波」が党の正式の機関だとしてもやはり、大問題だろう。だが、「さざ波」は単に党員有志による自主的討論の場にすぎぬ。そこで掲げられた、とくに罪のないスローガンをどうしてそこまで問題にするのが不思議でならぬ。
5、党をやめても、党員以上に「党員的」である人に時折お目にかかるが、嫌煙家氏の論調にはその種の「党員くささ」を強く感じる。嫌煙家氏は、党を除籍されてもやはり、アイデンティティーは「党員」なんだろうなと思う。それは別に悪いことではない。私の知り合いにも、いわゆる「批判的党員」がいる。しかし、そのお人の、共産党に対する執着はすさまじい。その「執着」がある意味で党批判の原動力にもなっているのだろう。もしかしたら、「批 判的党員」というのは、普通の党員以上に「党員」的存在なのかも知れぬ。やはり、そういう人たちにとって、「共産党」はどこまでも特別の存在なのだ。嫌煙家氏は、自分の共産党へのこだわりには何ら「唯一前衛」的な要素はないし、共産党の特権性を認めるものでもないと言っているが、その断言にはどこかやはり嘘があると思う。全部嘘ではないにせよ、全面的に真実でもないのではないか。嫌煙家氏は、党から除籍されたことを自らの「セクト」性を否定する最大の論拠にしているが、そこにもやはりどこかごまかしがあるように思える。嫌煙家氏は、たしか「JCPウォッチ!」で、自己批判してでも党に帰りたいようなことを書いておられた。非難しているのではない。除籍されたことを恨んで反共に走るよりは何十倍も健全である。だが、その反面、どうしても共産党を特権視する党員的見方を払拭できていないように感じるのは、小生だけだろうか。