この投稿が掲載される頃にはもう選挙結果は確定しているでしょう。したがって、実践的な意義という点においては、「さざ波通信」の選挙向けスローガンを問題にした私の一連の投稿はもうお役ご免かと思います。どうも私の主張の趣旨はあまり理解されなかったようですが、自分としては言いたいことはひととおり言ったつもりですし、もうこの点にこだわるつもりもありません。ただ、28日付でさすらいの左翼さんからもっと建設的な議論をするようにとの諫言を頂きましたので、私の立場を説明する意味でも、この問題に関する最後のコメントをしておこうと思います。
さすらいの左翼さんはこの論争について次のような感想を述べておられます。
このサイトの愛読者として、本来は仲間であるはずの両者がこのような二次的な論点でここまで激しい論争を交えていることを残念に思います。
「ここまで激しい」というのは「必要以上に」ということだと思いますが、不毛な揚げ足とりになっているとか、あるいは虚しい罵り合いになっているという意味でしょうか? 少なくとも私は揚げ足とりを行ったことはないつもりですし、また罵詈讒謗を浴びせるなどということとはまったく無縁だったと自負しています。それとも、そもそも行なうべき議論ではなかったという意味でしょうか? 私は自分の議論が間違っていたとは思っていませんが、仮に根本的に間違っていたとしても、それによって何らかの問題提起ができたとしたならば、それだけでも議論を行なった意味はあったと考えています。もし私の議論に何の価値もないものであり、まったくとるに足りないものであったとするならば、編集部も反論を行なう必要を認めなかったことでしょう。
私は決して編集部を敵と認定して攻撃を仕掛けたわけではありません。「さざ波」に対して抱いている感情は議論の前と少しも変わりません。再び毛沢東を使うならば、これはせいぜい「副次的な矛盾」に過ぎません。けれども、「副次的」な矛盾も矛盾には違いないのですから、放置することは正しくありません。私は23日付の投稿で、「さざ波通信」は主要な矛盾を見誤っているのではないかと批判しましたが、この場合「主要な矛盾」とは小泉政権と国民(人民)との矛盾であり、「副次的な矛盾」とは対抗勢力内における共産党の問題です。「さざ波」はもともとこの問題を主題とするものですから、大いに批判するべきだと私は考えていましたし、いまでもそう考えています。副次的な矛盾を徹底して隠蔽してきたことから起こった悲劇がソ連・東欧の崩壊なのではないかというのが私のもっとも根本的な問題意識ですから、私はいささかもこれをゆるがせにするつもりはありません。
かように私は考えていますので、「このような二次的な論点」で議論をすることもまったく無駄ではなかったと思います。この矛盾は決して「主要な矛盾」ではありませんから、私は「さざ波」に対して敬意を払いこそすれ、敵視するいかなる理由もありませんでしたし、おそらく今後もないでしょう。もし論争が相手をやり込めることを目的とするものとなってしまうならば、それは確かに不毛なものですが、そうではない限り「激しい論争」であることは決して悪いことではないと私は考えています。