2001年7月29日付、待子さんの『再び横レスすみません。嫌煙家さんへ』に対する横レスです。
党は、討論クラブではないと言われたそうですが、正に正しい批判だと思います。討論のための討論なんていくらやってもしょうがありません。世の中をかえって行くためには、実践が大切です。
あのですねぇ、討論って実践のひとつではないのですか? 討論を除外した実践って何ですか?
実践といわれるものの中には、ビラ配りあり集金あり、そして討論ありなのではないのですか?
次のような反論が来るかもしれません。「討論そのものが実践ではないと言っているのではない。討論のための討論が実践ではないと言っているのだ」。では、討論のための討論か、討論のための討論ではない討論なのかを決めるのは誰でしょう?
私とて、嫌煙家さんの投稿に対し、「なんで共産党に理不尽にいぢめられた嫌煙家さんが、あそこまで共産党を擁護するんだろう?」と思います。しかし、嫌煙家さんの討論は決して「討論のための討論」とか、まして「討論のための討論をして遊んでいる」とか、そんなふうには思いません。嫌煙家さんに対しては反論が多いようですが、それは嫌煙家さんがちゃんと討論されているからです。嫌煙家さんが「討論のための討論をして遊んでいる」人間だったら、だれもマジメに反論しようなどとは思わないでしょう。あ、あなたも嫌煙家さんに対して反論してるんですね。ということは、嫌煙家さんが「討論のための討論をして遊んでいる」人間ではないというのを、本当はあなた自身にもわかっていらっしゃるのではないでしょうか?
私はこれまで待子さんの投稿をおもしろく読んできましたが、だんだんそういうふうにできなくなりました。そしてついに、今回の嫌煙家さんに対する投稿で、私の中の評価は決定的に変わりました。
待子さんは「愛のある社会主義」と言われています。しかし、あなたの嫌煙家さんに対する今回のレスに愛を感じません。
だいぶ前、ちびねこさんがあなたに対してきつい投稿をされたことがあって、あのときは内心あなたの肩を持ちたいと密かに思ったのですが今回は違います。
待子さんへの個人攻撃になってしまったことをお詫びします。しかし言い訳させていただくなら、あなたが「愛のある社会主義」を言っていらっしゃるからです。「愛のある社会主義」を言っていらっしゃる方が実践こそ大事だと言っている。では、こういうこと言ってるご本人はどんな実践をするんだろう?
あなたがさざ波通信に投稿することは実践です。さざ波通信への投稿で何を書くか、それこそが実践です。