不思議なことだ。適時更新されている「さざ波通信」のフレームにある短文のスローガンのことだ。最近更新したと思われるスローガンは、次のようになっている。
参院選は、小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党と候補者に投票を!
革命的左翼を標榜してきた「さざ波通信」が全面的に「護憲」を掲げるということにはどこか座りの悪さがある。が、そのことは措くとしよう。問題は、明示的に共産党への投票を呼びかけるのではなく、漠然と「小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党」への投票を呼びかけていることだ。
私は日本共産党こそ「小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党」だと考えているし、またこのように考えることはいたって自然なことではないかと思っている。なぜ「さざ波通信」は共産党への支持を呼びかけずに、このようなもって回った言い方をするのだろうか? 「さざ波通信」編集部は共産党を「小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党」だとは考えていないのだろうか? 結論的に言うと、このスローガンは共産党が実際には小泉路線と十分に対決する姿勢を見せておらず、また「護憲と革新の旗」も堅持する姿勢をとっていないということを示唆するためのものではないかと私には思われる。
非党員や非公然の党員知識人など、党から一定の距離があると見られている人や団体がもし件のスローガンを掲げたとしたら、それは明らかに有意義なことだ。党外の一般有権者を党に近づける役割を果たすからだ。しかし、逆にもし公然党員が同じことを言ったならば、このスローガンが持つ意味はまったく異なるものとならざるを得ない。あたかも共産党は「小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党」ではないかのような印象を与えかねないからである。
私は、党員が公共的に党を批判することは許されるべきであり、それどころかきわめて重要なことだと考えている。しかし、党員が党への不支持を呼びかけるようなことは絶対に許されないと思う。それは党員であることを否定する行為だと考えるからである。今回の「さざ波通信」のスローガンは、確かにそこまでのものではない。しかし、そうしたことを示唆していると理解(誤解?)されてもおかしくはないようなスローガンだと思う。
今回の選挙の最大の争点は、「構造改革」路線が必然的にもたらす経済と社会の破壊を許すかどうかというところにある。また、そうした新自由主義的政策と軌を一にして進められている新保守主義的な外交・安保政策を許すかどうかということも重大な争点になっている。こうした状況にあって、少なくない人々が共産党の躍進に期待と望みを託しているわけである。いかに批判的なスタンスを持っているにせよ、現役党員によって運営されているHPである「さざ波通信」がここで単刀直入に党の支持を訴えないということは、私には納得がいかない。
共産党は、なるほど対抗軸を可視的なビジョンとして仕上げることには十分に成功してはいないかもしれない。また、憲法問題でも革新の旗という点でも看過できない後退を繰り返している。私自身、共産党から除籍された身であり、党には少なくない不満を持っている。「さざ波通信」による党批判の大部分には共感している。しかしそうしたことは、党の<弱点>を示すものではあれ、党が<死に体>であることを示すわけでは決してない。党の躍進に期待をする多くの支持者(私もその一人である)や無党派層を前にして、なぜ「さざ波通信」は敢えて「小泉「構造改革」路線と対決し、護憲と革新の旗を守る政党」などへの投票を呼びかけるのだろうか?
念のために付言するならば、私はここで日本共産党への支持<だけ>を訴えるべきだと言っているわけではない。なぜ党への支持を訴えるという最も肝心なこと(このように私は思う)をしないのか、という疑問を提起しているのである。また私は、党への批判的言辞を差し控えることが党のためであるというような考えは持っていない。「さざ波通信」は従来通りに党への批判を行なっていくべきだと思う。ただ、そのやり方と時期は十分に考慮されるべきである。いま、この時期に、あのようなスローガンを掲げることは客観的にいかなる意味を持つのかと問うているのである。むしろ、こうした重要な時期に党への支持を訴えるというようなことは、「さざ波通信」の党批判の説得力を増すことにはなるのではないだろうか?
嫌煙家さん、ご投稿ありがとうございます。編集部からの回答は、別に投稿扱いで掲載します。(編集部K・S)