霧澤博禮氏の投稿は、推定無罪原則を誤用して事実上米軍の犯罪を擁護し、さらには、沖縄で徹底した人権侵害を繰り返してきた米軍があたかも人権意識の高い組織であるかのように主張するものであり、われわれはそれを怒りをもって糾弾する。
推定無罪原則の誤用
まず霧澤投稿は、『さざ波通信』のトピックスに対し、推定無罪原則を蹂躙するものだと糾弾している。だが、このような推定無罪原則論はあまりにも抽象的である。推定無罪原則は基本的には、権力をもっている捜査当局、司法当局、一般マスコミの中立性を厳しく義務づけたものだ。しかしながら左翼は、個々の権力犯罪において自らの判断のもとで、自らの評価を下す。たとえば、自民党政治家の汚職が問題になったとき、裁判所が判決を下すまで左翼はそれを黙って見守るべきだということにはならない。ましてや、汚職議員を糾弾する側を、「君たちは推定無罪原則を蹂躙する気か」などと言って恫喝したりはしない。そして、裁判所がたとえ無罪判決を下しても、われわれは謝罪するどころか、その判決を不当判決だとして糾弾するだろう。
また、薬害エイズ事件においてすべての左翼は、判決が下るはるか以前から、厚生省とミドリ十字と安部英の犯罪を糾弾してきた。霧澤氏の主張によれば、推定無罪の原則にもとづいて、この薬害エイズ問題でも左翼は判決が下るまでおとなしくしていなければならない、ということになるだろう。そして「私は新聞報道以上のことは知らないので、コメントしない」と宣言するべきだったということになるだろう。それどころか、安部英を糾弾する薬害エイズ被害者およびその支援者たちを「君たちは推定無罪の原則を蹂躙するつもりか」と言って恫喝しなければならないことになるだろう。そして、無罪の判決が下った瞬間に、この判決を不当だと糾弾する代わりに、「すいませんでした、安部氏は無罪でした」と左翼がいっせいに謝罪しなければならなくなるだろう。
さらに、従軍慰安婦問題でも、推定無罪の原則にのっとって、小林よしのりといっしょに日本軍兵士の人権を声高に主張しなければならないことになるだろう(実際、自由主義史観派は同じような論理で日本軍兵士を弁護している)。そして、従軍慰安婦問題に取り組んでいる韓国人民と日本の支援者たちに、「君たちは推定無罪原則を蹂躙するのか」といって恫喝を加えなければならなくなるだろう。
かつての侵略戦争の最高責任者たる昭和天皇は、東京裁判では被告からはずされ、結局いかなる裁判にもかけられなかった。となれば、この天皇を戦争犯罪人として糾弾することはそもそも許されないということになるだろう。
その他、推定無罪原則を抽象的に理解し、それを一面的に適用するならば、基本的に左翼のすべての運動、民衆のあらゆる闘いは不可能になるだろう。そして、左翼も民衆も、ただただ裁判所の判定を指を加えて見守るしかないということになるだろう。そして、裁判所が無罪判決を下したなら、それを信じて、そのような権力犯罪はなかったのだと口を揃えるはめになるだろう。
「推定無罪原則」を抽象的に振りかざす立場は、一見、反国家的であるように見えるが、実際には裁判所という国家機関に対する物神崇拝に他ならない。すべての真実は裁判所が明らかにしてくれるだろう。それまでは左翼は、推定無罪の原則にのっとってコメントしてはならない、というわけだ。左翼はいつから、ブルジョア裁判所を自分の判断基準にするようになったのか。
米兵がこれまで沖縄で犯してきたし、今も犯しているし、今後も犯すであろう無数の犯罪は、単なる個人犯罪ではなく、まさに権力犯罪そのものである。それらは、国家に守られた軍人が民間人に対して行なう犯罪であるというだけでなく、事実上の占領軍として振る舞っている在沖米軍の兵士が沖縄民衆に対して行なう犯罪であるという意味でも、権力犯罪である。またそれがレイプのような性犯罪である場合は、さらに男性権力の行使という側面が付け加わる。これが一個人の偶発的犯罪ではなく、沖縄の状況そのものから生じている権力犯罪であることは、沖縄に住む人々なら誰でも知っているし、実感している。それは、かつての個々の日本軍兵士によるレイプや略奪が、権力犯罪であるのと同じである。このことを理解せず、米兵による犯罪をあたかも、日常に起こるその他の偶発的な個人犯罪と同列視して、推定無罪原則を振りかざすことは、事実上、米軍の権力犯罪を擁護することを意味する。それは、被害者と沖縄民衆の名誉と尊厳と感情を踏みにじるものである。
レイピストの論理
霧澤氏は、容疑者が「本人との合意の上だった」と主張していることを持ち出している。だが、すべてのレイピストは同じことを言う。相手は合意していた、と。ではなぜ被害者はレイプを訴えたのか? 強姦罪は親告罪である。そして、日本の社会風土においては、強姦の被害者であることを名乗り出ることは、きわめて勇気のある危険な行為である。レイプの被害者は、被害者であるにもかかわらずスティグマを押され、社会的に孤立させられる。しばしばそれは身の破滅につながる。それゆえ、レイプの届出は、実際のレイプおよびレイプ未遂の数よりも極端に少ない。正確な統計は存在しないが、少なくとも数分の一から、十分の一程度であろう。とくに、沖縄での米兵の犯罪では、警察の側が及び腰であるため、なおさらレイプの被害を訴えることは難しい。たとえ訴えても、日米地位協定と米軍基地の壁に阻まれて、たいていの場合、捜査は普通のレイプ事件以上に難航する。こうした現実をよく知っている沖縄民衆は、今回の事件にすばやく反応し、断固糾弾の運動を開始したのである。すべての左翼、すべての良識ある人々に問われているのは、この勇気ある訴えを行なった被害女性と沖縄民衆に連帯するのか、それとも推定無罪原則にしがみついて冷淡な傍観者にとどまるのか、という選択である。たしかに、推定無罪原則に抽象的にしがみついて、レイプ被害の女性の訴えに耳を貸さず、沖縄民衆の戦いに背を向け、それどころか、推定無罪原則の破壊者として彼らを糾弾することもできるだろう。だが、われわれはそれを左翼としての自己否定であると考える。われわれはきっぱりと被害女性および沖縄民衆と連帯する。
沖縄の民衆、女性、子供たちは、日々、米兵の犯罪に脅かされ、彼らの存在そのもの、基地の存在そのものによって脅かされ、恐怖させられている。こうした状況に対して、かけらでも想像力があるのなら、霧澤投稿のようなことは絶対に書けないはずである。それは、推定無罪原則の名のもとに二次被害を与えかねない行為である。
日米地位協定
霧澤氏は、日米地位協定が米兵の犯罪を誘発しているというトピックスの主張について、「根拠のない主張」だと断言している。その断言の唯一の理由は、日米地位協定が、公務外の犯罪について日本の裁判権を保障しているからだというものである。これは非常に一面的な主張である。
米兵は、レイプしたりひき逃げしたりしたとき、必ず米軍基地の中に逃げ込む。なぜなら、基地内には日本の警察の捜査権は及ばないからであり(日米地位協定は、日本の警察の立ち入り調査を保障していない)、たとえ米軍に拘束されても、起訴されるまでは身柄が引き渡されないからである(日米地位協定第17条第5項)。そして、過去、米軍基地に逃げ込んだ米兵が、米軍側によっても拘束されずに、まんまと国外に逃亡しえた事件もあった。そのような現実を身にしみてよく知っている沖縄の民衆は、まさに米軍基地と日米安保条約と日米地位協定の存在そのものが米軍兵士の犯罪を誘発していることを確信している。
もちろん、日米地位協定だけが、米軍兵士の犯罪を誘発しているのではない。米軍兵士は、米軍基地の存在によって、安保条約の存在によって、日米地位協定によって、アメリカ帝国主義に従属した日本政府の姿勢によって、二重三重四重に守られている。日米地位協定は、このようなシステム全体の不可欠の一環として、米兵の犯罪を誘発する役割を果たしている。
日本警察の人権保護の不十分さと米軍の言い分
われわれは日本警察の取り調べにおける人権保護の不十分さをいささかも擁護しない。日本警察の捜査のあり方、取調べのあり方、裁判のあり方、刑務所の運営の仕方、これらはすべて抜本的に改革されなければならない。そんなことは言うまでもない常識である(ただし、アメリカの警察の取調べが日本ほど酷くないというのは、おそらく幻想である。容疑者が白人中産階級である場合と、黒人やヒスパニックや貧困者である場合とでは、その取調べの人権度はまったく違う。アメリカ黒人なら、アメリカ警察の取調べが人道的であるなどという意見に絶対賛成しないだろう)。しかし、「日米の捜査における人権の取扱いを考えれば、米軍が起訴前の容疑者を日本側(世界的に悪名高い代用監獄)に引き渡さないことは、むしろ自国民の人権を考えた当然の対応ではないだろうか」と言うのはナンセンスである。アメリカはヨーロッパ諸国を始めとする他の国との地位協定でも、起訴までは米兵の身柄引渡しを認めていない。「悪名高い」日本に対してだけでなく、容疑者の人権が守られているはずの国に対しても、やはり起訴前の身柄引渡しを認めていない。これは、米兵の人権を守るためではなく、米軍を守るためである。今回、アメリカが被疑者の人権問題を持ち出したのは、米軍を守りたいという本音を出すことができなかったからにすぎない。
だいたい、米軍のどこが人権擁護的なのか? いったい米軍は世界で沖縄で何をしてきたのか? 米軍は世界中で、侵略行為を繰り返し、政府要人を誘拐・暗殺し、人権侵害の限りを尽くしてきた。日本だけに限ってみても、米兵によって殺された日本人の数は1000人以上に及ぶ。その多くは犯人がまともに罰せられていない。公務中の犯罪に関しては第一次裁判権が米軍によって専有されている。そして、その公務中の犯罪のほとんどはごく軽い罰に問われるか(降格など)、あるいは無罪放免になっている。米兵はそのことをよく知っている。ときに、公務外の犯罪でさえ同じように許されていると勘違いしている米兵さえいる。
また、米軍は、自国の軍隊の兵士の人権さえもまともにかえりみない。米軍が1960年代半ばまで、核戦争を想定して、キノコ雲の中を米軍兵士に行進させて大量の被爆兵士を作り出したことはよく知られている。最近でも、米軍は湾岸戦争で劣化ウラン弾を大量に使用し、米兵のガルフ・ウォー症候群を生み出した。この徹頭徹尾人権無視の犯罪的軍隊を人権擁護意識の高い組織であるかのように描き出すことは許されない。
また、霧澤氏は「米軍側が、容疑者の取り調べに通訳の同席を求めたことも、至極当然であり、日本と違って人権を尊重する国ではどこでも認められている当然の権利である」と述べている。これは事実に反する。米軍側は、通訳一般の同席を求めたのではなく、米軍の指定する通訳の同席を求めたのである。日本の取調べでも、通訳の同席そのものは、国家公安委員会の規則によって認められている。ただ、日本の国内ルールでは、その通訳の選定にあたっては、被疑者との特別の関係がないことを条件としているだけである。もちろん、日本はこの問題において、米側の指定する通訳の同席をさっさと認めるべきだった。そうしなかったのは、これを認めると他の外国人の事件でも同じ要求が出されることになるのを恐れたからである。ここでは警察庁は、速やかな問題解決を望んでいるであろう被害者のことよりも、自分たちの警察的利益を優先させたことになる。つまり米軍側も、日本の警察庁も、どちらも被害者不在で、自分たちの権益を優先させたのだ。
民族主義に毒されているのは誰か
霧澤氏は投稿の最後に「「さざ波通信」はかつて日本共産党の民族主義を非難していたが、自らもまた民族主義に毒されていないか再考してみるべきではないか」と述べている。在沖米兵の犯罪を糾弾し、被害女性および沖縄民衆と連帯することが、民族主義的だというわけだ。とんでもない言いがかりである。もしわれわれが、旧日本軍兵士が朝鮮半島や中国大陸で行なった数々の犯罪行為を「推定無罪原則」にのっとって事実上弁護し、今回の事件に関してだけ米兵を糾弾していたとしたら、それは許しがたいダブルスタンダードであり、民族主義的だと非難されても仕方ないだろう。だが、われわれはそのような態度をとったことはない。
また、米軍は韓国においても傲慢不遜に振る舞い、在韓米軍兵士は、沖縄の場合と同じく、数々の犯罪行為を犯しながら、米韓地位協定や在韓米軍基地によって守られている。沖縄民衆が日々被っている被害は、世界各地の米軍基地によって周辺住民が受けている被害と同じである。したがって、沖縄民衆と連帯することは、米軍によって被害を受けているすべての人々と連帯することに通じる。
さらに、日本本土の人間は、沖縄にほとんどの米軍基地を押しつけてきた。そのおかげで沖縄民衆が日々経験している恐怖をわれわれは感じないですんでいる。そして霧澤氏のような人間は、今回のような事件が起こっても、沖縄民衆の怒りや悲しみにかけらの想像力も働かせることができずに、推定無罪原則を抽象的に振り回している。いったい、大和民族主義に毒されているのはどちらか?
さいごに
今回の事件でまずもって尊重されるべきは、レイプを訴えている女性の人権であり、彼女の苦しみ、尊厳、声にならない声である。そして、彼女の苦しみを自らの苦しみとして受け止めている沖縄民衆の怒りである。それについて報道以上に知らないからと言ってコメントせず、ただ容疑者の米兵の人権だけを声高に語るような「左翼」は、民衆の信頼を失い、誰にも相手にされなくなることだろう。
なお、最後に付け加えておくが、今回の霧澤氏の投稿は、すでに述べたように、今回の事件の被害者および沖縄民衆の感情と尊厳を蹂躙するものであり、二次被害を与えるものとなっている。われわれは、霧澤氏に対し、被害者および沖縄民衆に対する真摯な謝罪と自己批判を要求する。それがなされないならば、われわれは、霧澤氏の投稿の掲載を見直さざるをえないだろう。
また今後、戦前・戦中の日本軍兵士による犯罪や戦後の在日米軍兵士による犯罪を事実上弁護したり、被害者の感情や尊厳を踏みにじるような投稿は、二次被害をもたらす行為として掲載しないこととする。とりわけ、現在進行中である今回の事件に関しては、被害者および沖縄民衆の感情を逆なでするような投稿は、セカンドレイプとなる可能性が非常に高いので本サイトでは掲載しないこととしたい。