ケイエムさん、投稿ありがとうございました。
残念ですが、八鹿高校事件の真相は、あなたの信じているのとは正反対です。
八鹿高校では、共産党教職員の力が強く、学校公認の「部落問題研究会」では、部落解放同盟に対して中傷宣伝が行なわれ、部落の生徒はおらず、民青同盟員の養成機関でしかないという状態でした。そのため、部落の生徒が、部落解放同盟八鹿支部とも連絡を取って新たに「部落解放研究会」を作りました。しかし、共産党教師は、「外部(=解放同盟)の介入」を理由にこれを認めませんでした。部落解放研究会の生徒は、教師との話し合いを求めてハンストを行ないましたが、共産党教師はあくまで話し合いを拒否し、関西一円から動員された民青が、支援に来た部落解放同盟員に対して差別語を浴びせて挑発したことから、衝突が起こったのです。共産党は何の謝罪もせず、逆に部落解放同盟員を権力に告訴し、権力はこれを利用して部落解放同盟に大弾圧を行なったのです。
兵庫県南光町の共産党員町長については、この記事をご覧下さい。
http://www.jlp.net/news/980101c.html
日本共産党が部落解放運動に対立するに至った経緯は複雑で、恐らくは双方に権力のスパイがいて対立を煽ったということもあるのでしょう(中核派、解放派と革マル派の内ゲバもそうだと思います)が、日本共産党が大衆運動に対して引き廻しの態度を取らず、率直な反省の精神を持っていれば防げたことだと思います。以下簡単に述べます。
日本共産党の主流派は、1961年に構造改革派、1964年に志賀義雄(衆議院議員)などの親ソ派を追放しましたが、部落解放同盟内部では党から追放された人々が影響力を持っていました。
1965年の部落解放同盟第20回大会で、「同和対策審議会答申」の評価をめぐって激しい対立が起こりました。解放同盟の多数派が「長年にわたる運動の成果」であり「内容は十分とはいえないが、今後の運動に積極的に活用」していくとの方針を打ち出しました。それに対し、共産党系の少数派は、「答申の本質は、米日『2つの敵』が、解放運動を反共主義、融和主義のわく内にひきいれることにあります。政府はこの範囲内で一定の経済的な利益を部落大衆に与えながら、これを軍国主義、帝国主義復活の政策をおしすすめる道具にしようとしているのです」(『赤旗』65年12月12日)と「2つの敵論」を押しつけて否定しました。共産党の主張が退けられると、大衆運動に対して引き回し的な発想を持つ共産党は、「解放同盟指導部の反党分子の策謀」との妄想を深めていき、共産党が握る支部を使って解放同盟多数に抵抗させ、部落に「生活と健康を守る会」を組織して解放同盟に対抗させるなど、解放運動との敵対を深めていきました。
以後、共産党は部落解放同盟に対する非難を次第にエスカレートさせ、「解同=暴力利権集団」と誹謗中傷するようになり、1970年に「部落解放同盟正常化全国連絡協議会(正常化連)」を結成し、解放同盟破壊を追求するようになりました。
1970年代には、共産党は「救国と革新の国民的合意」「教師聖職論」「自治体労働者は住民の奉仕者論」などを掲げ、議会至上主義に基づいて、選挙民のおくれた意識に迎合して票を取るために、部落解放運動に対する攻撃を強めていきました。共産党は票は伸ばしましたが、部落住民をはじめ、闘う人民の間で忌み嫌われる存在になっていったのです。
沖縄、北海道という部落の存在しない地域を除いて、部落問題は常に共産党とほかの勢力が共同することを妨げています。部落の人々には、「共産党と共同するくらいなら自民党のほうがいい」という意識があります。新社会党が地方選挙で共産党系の候補を支持した時も、部落の新社会党支持者から強い反発と抗議がありました。左翼が全面的に守勢に立たされ、改憲の危機が迫っているなか、共産党とそれ以外の勢力が消耗戦をするべきではありません。共産党の全面的な謝罪さえあれば、共産党とそれ以外の勢力が共同する障害が無くなるのです。良識ある共産党員は、党内
で行動すべきです。