「さざ波通信」第22号の拙稿「政府のIT戦略に対する闘いを開始しよう」で私が述べたことは、第一に、情報技術の発展がもたらす変化は「革命」の名に値しないこと、第二に、政府が推進する「IT革命」は、「合理化」や「リストラ」の推進にすぎないということです。しかしながら、十分な論立てが出来ておらず、誤解を招きかねないものでした。そこで、改めて政府が唱える「IT革命」について投稿します。
1、「IT革命」は「産業革命」にはじまる「工業化」に匹敵するか?
「産業革命」に始まる「工業化」は、「工業社会」を生み、長い年月をかけて新しいモノやサービスを生み出してきました。一方、今言われている「情報社会」の進展は、これまでの技術進歩とは比較にならないほどの速さで進んでいます。多くの人々が情報技術の進歩の速さに驚嘆し、それを一種の「革命」だとみなすのも無理はありません。
しかしながら、進歩の速さだけに目をとられていては、その本質を見失うことになります。進歩が速いということは、それだけ成熟も速いということでもあります。90年代のアメリカで進んだと言われる「IT革命」には早くも陰りが見えてきています。
そして、より本質的なことですが、経済学的にみれば、「情報社会」が「工業社会」を押しのけるような「革命」とも言える大変革は起こりえないということです。
「工業化」による生産活動は、農業生産を押しのけ、たとえばGDPにすれば大部分を占めるほどの大変革を国民経済にもたらし、また社会構成の変革、人々の生活の大変革をもたらしました。より正確に言えば、戦後の大量生産化(オートメーション化またはフォーディズム)によって農業生産者は激減し、例えば日本では、戦後農村から都市への人口の大移動がありました。
では、「情報社会」を担う「IT産業」は、これまで「工業社会」を担ってきた各種工業生産を押しのけて、GDPの大部分を占めるほどの変革を経済にもたらすのでしょうか? 人は情報のみによって生きるものではありませんから、「IT産業」が国民経済に占める割合は限られてくるのではないでしょうか。それゆえ、「IT革命」は、それがいかに「すごい」ものであっても、経済学的にみれば、「工業化」に匹敵するどころか、「工業化」の一部である「大量生産化」にも届かないものなのです。
かつて日本が好景気に沸き「日本的経営」がもてはやされたときに、それが「フォーディズム」と比肩しうるものとなりうるのかという議論がありました。私は、「IT革命」(=「ニューエコノミー」論)についても「日本的経営」と同様に、「フォーディズム」並みの大変革をもたらすとは考えていません※。
したがって、仮に政府の言う「IT革命」がうまくいったとしても、90年代のアメリカで起こったように、各産業内(主としてBtoBの局面)や公的部門において「合理化」が進み、労働力の移動が比較的小さい規模で生じる程度でしょう。合理化によってはじきだされた労働者は、アメリカでそうであったように、低賃金の不安定雇用(単純労働のサービス業など)に吸収されることになるのではないでしょうか。社会構成の変革とまで言われるような事態にはなりえないでしょう。
2、政府の言う「IT革命」とは?
「IT革命」がいったい何を指すのか、ということになると論者によってかなり異なっています。私が「IT革命」というタームで念頭に置いていたのは、拙稿の表題にもなっている政府のIT戦略が想定しているものです。それは、「参院選を振り返って(座談会)」の発言でも指摘されていますが、90年代のアメリカの好況をもたらしたとされている「IT革命」(≒「構造改革」)です。
いわゆる「ニューエコノミー」論者は、このアメリカの「IT革命」による「構造改革」が労働生産性の一貫した向上をもたらし、アメリカは今や、不況のない=景気循環のない新しい経済に突入したのだという議論を展開しました。しかも、それは本場アメリカよりも日本においてもてはやされたのですが、いずれにしても、そのような夢のような「革命」がなかったことは、この間のアメリカ経済が実証しています。
もともと、90年代のアメリカの好景気をもたらしたものは、「IT革命」でもなんでもありませんでした。それは、80年代の他ならぬ日本の好況から「日本的経営」を学んだアメリカ企業が、さらに徹底した「合理化」「リストラ」と不安定雇用の増大、長時間労働を進めることによって、労働者の実質賃金を一貫して低下させた結果なのです。それが「成功」したあとになって「IT革命」と名づけられたにすぎません。それゆえ、たとえ資本家の観点に立ったとしても、「日本的経営」がすでにいきわたっている日本において、90年代のアメリカのような「成功」をもたらすことは保障されていないのです。
このようなアメリカをモデルとした政府のIT戦略は、その根本からして批判してしかるべきではないか、というのが拙稿で言いたかったことです。
その他にも「IT革命」で言われているものをあげますと、eコマース(電子商取引)の広がりによって流通に「中抜き」が生じるだの、企業間取引が変革するだの、あるいは消費スタイルが変革するだの、SCMやCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネッジメント)などによって中間(管理職)が不要となって企業経営が変革するだの、論者によってさまざまに言われています。それらに共通しているのは、今のところ一部の分野でしか大きな効果を発揮しえていないIT技術を不当に一般化し、産業や経済に大変革をもたらすとしていることです。
「IT革命」をその長足の進歩というイメージで捉えるのではなく、今もてはやされている技術が産業・経済に対して具体的にどれだけの影響をもたらすかを明らかにするためには、具体的分析という作業が必要です。現在、そのような分析に耐えて一般化しうる技術が果たしてどれだけあるでしょうか?
3、ITの社会に与える影響
ここまでで、私がITの発展自体を反動とみなしてラッダイト運動を呼びかけたわけではないことは理解いただけたと思います。私は主として経済という側面から「IT革命」をみてきました。どうも、コミュニケーション手段としてのITについて、前回まったく触れなかったことが読者の誤解を招いたようですので、ここで補足しておきます。
もちろん私は、主としてインターネットや携帯電話によって開かれているコミュニケーション手段の発展の結果として、一個人が情報や意見を広範囲に発信することができるようになったという意味での民主主義的効果を否定するものではありません。
しかし、同時に指摘しておかなければならないのが、コミュニケーション手段としてのITが大なり小なりの民主主義的効果があると言っても、それが、現実世界における支配の構造や富のヒエラルキーを覆えしたり、揺るがしたりするものではない、ということです。このことに関連して、渡辺治氏が自治労連の研究組織「地方自治問題研究機構」のHPに掲載されているインタビューで示唆に富む発言をしているので引用しておきます。
企業社会と利益政治再編=国民統合の二つの方向
しかし、こうした危機を従来の自民党政治のように、利益誘導で金をばらまいて再建することはできない。社会保障・福祉の切り捨てをやめることも、勿論できない。そこで現在、二つの考え方が出ていると思います。一つの考え方は、新自由主義型の社会統合=アメリカ型の社会統合です。この考え方をとっているのは、たとえば「21世紀日本の構想懇談会」という、亡くなった小渕首相がつくった懇談会などです。社会経済生産性本部が出した「選択・責任・連帯の教育」という構想も、これだと思うのです。これらの報告で打ち出されている構想は、簡単に言うと、もっと民主的なシステムを拡充して、情報公開の権利、裁判の道等を拡充することによって、「強い市民」の要求を充足する回路を強化し、「強い市民」=上層を中心に社会の統合をしようという方向です。お金と暇のある市民は、情報公開や裁判等に訴えることによって、自分たちの政治に対する不満や声を政治に反映させうるので、こういう「強い市民」の権利を拡充して、社会を統合していく方向です。「強い市民」を中心としたアメリカ型社会統合の道
アメリカ型社会は、社会の貧困化と、社会の階層分裂が大きく進んでいますが、2000年の大統領選挙を見ると、一年間もかけて民主主義の「お祭り」がおこなわれるわけです。熱狂的な大統領選挙をおこなうわけですが、あの大統領選挙に参加している国民は、アメリカ国民のなんと半数程度なのです。50%の投票率で、残りの50%は、投票に行く暇もなし、投票に必要な英語も読めないような人たちもいるのです。しかしアメリカ社会において、強い市民は、訴訟とかボランティアとか、さまざまな権利によって支えられ、社会は統合されています。
渡辺氏はここで、ITを使った情報公開では日本より遥かに民主的であるアメリカのシステムが、中下層の声を反映する民主主義のシステムとしては機能していないことを指摘しています。ITによる民主主義の拡大という側面を過大評価することを戒めるものとして私は受け止めています。
もう1つ補足しておきたいのが、技術の進歩と環境との調和という問題です。
個人消費におけるITの主要アイテムであるパソコンや携帯電話は、これまで工業化社会で普及してきたTVや電話といったものと違い、商品の回転の速さ(バージョンアップ)できわだっています。まだ使える商品が次々に捨てられていくという意味では、大量生産大量消費社会をもっとも象徴する工業製品であるとも言えます。それは、ITが完成された技術ではなく、開発コストやインフラ整備のためのコストを捻出するために技術を小出しにしていかざるをえないという特徴を持っているからですが、環境との調和という点で非常に大きな問題を抱えていると言わざるをえません。
またそのような特徴を度外視して、仮に先進諸国から途上国への援助が功を奏して「IT革命」が全世界規模で拡大したとしましょう。地球上のいたるところに光ファイバー網が張り巡らされ、携帯電話の無線基地がアフリカの山岳地帯にも作られ、世界中の誰もが、パソコンや携帯電話を持つようになったとしましょう。その場合、いったい、それらのパソコンやプロバイダのサーバーや通信基地といったものを維持するのに、どれくらいの電力を必要とするのでしょうか? IT産業がGDP比で10%と言われているアメリカにおいてさえ、IT機器の電力消費の大きさが問題にされているというのに、全世界に展開することが可能でしょうか?
それは極端な話だと思われるなら、話を小さくして日本国内でeコマースが消費の大部分を占めるようになり、流通の「中抜き」が生じたとしましょう。そうすると、メーカーから消費者への直接配送が巨大な量になります(それは、コンビニや駅での受け取りでも事態はほとんど変わりません)。それは、確かにこれまでの流通システムを破壊し、日本中をトラックだらけにしてしまうことでしょう。
同じようなことはモータリゼーション(クルマ社会化)についてもよく言われています。日本やアメリカのようなクルマ社会が、全世界規模で展開されれば、地球の資源や環境はまたたく間に限界に達する、と。
このような意味においてなら、「人類の文化・技術の発展のなかでも、画期的な一段階」と言えるかもしれませんが、それはブラックジョークではないかと思うのは私だけでしょうか。いずれにしても、ITがもたらすと考えられるマイナス面(環境との調和という問題は一例にすぎません)を考慮に入れるならば、日本共産党はITを持ち上げてそれを「活用」する立場ではなく、政府のIT戦略を労働者の立場から批判し、ITがなくても大きな不利益をこうむらない社会構造を構築することを課題にするべきではないでしょうか。