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一般投稿欄

無責任な責任論>赤根氏へ

2001/8/2 S・T編集部員

 赤根さんのご投稿にお答えします。まず赤根さんは次のように述べています。

共産党員であれば共産党公認候補に投票するよう呼びかけるのは当たり前のことです。党員にとって、それ以外の候補への投票呼びかけが許容される場合というのは特殊な例外としてのみ存在するのであり、それは個別的判断が求められる行為なのです。何の条件も付さない一般的な呼びかけとして「他党への投票をも含意した」呼びかけは正しくありません。

 ここでは、「それ以外の候補への投票呼びかけ」と「『他党への投票をも含意した』呼びかけ」とが、まるで同じことであるかのように扱われています。しかし、この両者はまったく異なるものです。どうも嫌煙家氏との論争でも感じるのですが、ここらへんの相違が非常に安易にないがしろにされているような気がします。また、われわれは、読者の「個別的判断」をあくまでも重視した呼びかけをしているのです。それとも、あのバナーで各選挙区ごとの個別的判断を列挙せよということなのでしょうか?
 次に赤根氏は次のように述べています。

これは何を措くにしても党員という属性から要請される責任なのです。そんな責任など自分には無いという党員の方がいらっしゃるのであれば、その方には是非とも離党をお勧めします。「新社会党だって革新陣営だ」という議論がありますが、同党の消長には同党の党員が責任を負い、共産党の消長には共産党員が責任を負う。それぞれがそれぞれに責任を果さずして革新勢力が前進するなどと考えるのは無責任な幻想なのです。「どっちでもいい」なんてことは断じてあり得ません。

 「責任」云々については、後でもう一度出てくるので、その時に論じます。ここで言われていることで非常におかしいのは、「『新社会党だって革新陣営だ』という議論がありますが、同党の消長には同党の党員が責任を負い、共産党の消長には共産党員が責任を負う。それぞれがそれぞれに責任を果さずして革新勢力が前進するなどと考えるのは無責任な幻想なのです。『どっちでもいい』なんてことは断じてあり得ません」という下りです。これは一般論としてはまったくそのとおりです。しかし、われわれがこの意味での責任をいったいいつ拒否したのでしょうか? 『さざ波通信』の主張の99%は共産党およびそれと関連した情勢問題にあてています。新社会党について論じているのは、ほんのごく一部です。われわれは、どのようにすれば共産党が真に前進することができるのかについて、延々と論じています。2年半前から、いわばそのことばかりを論じてきたといっても過言ではありません。政策問題、組織問題、青年問題、指導部の問題、綱領問題、規約問題、情勢問題、理論と歴史の問題、等々、等々。われわれはまさに、共産党員としての責任を誰にも負けないぐらい果たしているともりです。共産党の前進と真の発展のためにわれわれがこれほどのエネルギーを費やしてきたことに対して、赤根氏はいったいどのように評価されるのでしょうか? われわれが、新社会党と共産党との関係について論じているのは、「どっちでもいい」という立場からでは断じてなく、まさに共産党員としての立場、党に責任を負う立場からです。われわれが、新社会党に対する選択がありうると論じたのは、ただ今回の選挙における投票というきわめて限定された問題においてだけであり、それも、さまざまな事情を考慮したうえでの読者の選択を尊重するという文脈においてです。このこと自体は何ら、共産党員としての責任と矛盾するものではありません。
 たとえば候補者調整の問題を取り上げましょう。われわれは、昨年の総選挙に先立って、兵庫3区で共産党候補者を取り下げて、新社会党の岡崎ひろみを革新の共同候補者にすることを訴えました。これは、あくまでも共産党員としての立場からする戦術的・戦略的判断です。この場合に、「同党の消長には同党の党員が責任を負い、共産党の消長には共産党員が責任を負う」という一般論を振り回して、それぞれが候補者を譲らず、結果として、保守候補者が当選して革新候補者が共倒れしたら、これは、革新全体にとってだけでなく、共産党にとってもマイナスになるのです。本来は、今回の参院選でも、事前に共産党と新社会党がトップクラスで交渉を持って、いくつかの選挙区で共同の候補者を実現すべきでした。しかし、それが実現できていない以上、党指導部の意志にかかわらず、個々の党員が(共産党員の場合も新社会党員の場合も)、自分の選挙区で、さまざまな事情を考慮して、どちらか一方に投票するということはありうるし、それ自体は何ら非難されることではありません。もしそれが非難されることなら、共産党指導部が新社会党と候補者調整をすること自体、自党の消長に責任を負わない立場として非難されるべきだということになるでしょう。それとも、党指導部がやるのはいいが、個々の党員はやってはならない、ということでしょうか? 革新政党間の候補者調整ということが原則的に許されるのか許されないのかについて、なぜかきちんとした意見が言われないのでしょう。
 次に赤根氏は次のように述べています。

迷走する共産党よりもまじめな新社会党や良識ある無所属候補への投票を呼びかけた方が「よりまし」だと考える党員諸氏に申上げましょう。あなた方の採るべき道は二つに一つ。自ら所属する党の迷走にもはや責任を負い切れないと判断するのであればさっさと離党し、別の道を歩むことです。もう一つは、迷走する自党に投票を呼びかけつつ、その理不尽さを党員ゆえに回避し得ぬものとして背負い、さればこそ党員としての責任を持って党改革にも死力を尽くす、すなわち、どこまでも共産党員としての責任を負い切るという愚直な道です。日本共産党にまともな未来があるとすれば、それを担えるのは後者を措いて他に無い、というのが私の考えです。党の欠陥をあれこれ云々してその党の一員としての責任から逃れようとする人々に党改革はできない。そう断言致します。

 このような主張は何重にも不当であり、きわめて無責任な議論です。赤根氏の議論によれば、共産党に投票を呼びかけることが共産党員としての資格を構成するようです。現在の共産党には、党の官僚的指導が原因で、党活動から離れている党員がたくさんいます。選挙の最終日でさえ、選挙活動に立ち上がる党員はわずか50%弱です。彼らは、共産党に投票を呼びかけないどころか、そもそもどの革新政党に対しても投票を呼びかけないでしょう。赤根氏によれば、このような共産党員は、さっさと離党すべきだということになりますね。不思議なことに、このような党員を大量に生み出した幹部や中間官僚の責任はいっさい追及されることなく、そのような指導の被害者たる党員にだけ「責任」が問われ、しかも「離党」という最終勧告まで行なわれるのです。何という官僚的で、専制的な態度でしょうか。これでは、「いやなら共産党を辞めろ」と恫喝する官僚と同じになるのではないでしょうか。
 そもそも戦術的かつ一時的な選択として共産党に投票しないという行動をとることが、どうして共産党の一員としての責任から逃れることを意味するのでしょうか? これこそ議会主義的偏見です。共産党に投票しはするが、いっさい大衆運動やイデオロギー闘争を行なわず、会議にろくに出席せず、党費も納めていない党員もたくさんいます。赤根氏の政治的基準に従えば、このような党員は立派な党員だが、その他のあらゆる活動を担っていても、共産党への投票を呼びかける気にならない党員は、さっさと離党すべきだということになるようです。何という党員基準でしょうか。怒りを通り越して、あきれはてます。
 あなたは「どこまでも共産党員としての責任を負い切る」と安直に言われています。しかし責任ないし義務というものは、その権利と均衡すべきです。いったい個々の共産党員にどのような権利が与えられているというのでしょうか? 「迷走する共産党になおも投票を呼びかける」という重い責任を押しつけながら(しかも、さもなくば離党せよとまで恫喝しながら)、これら党員の権利はまったく省みられていません。このような非対称性は何によって正当化されるのでしょうか? それが共産党というもんだ、ということですか。「前衛」という例の基準によるものですか? 前衛党員というのは、権利もなしに、馬車馬のようにただただ義務と責任を果たすだけの存在だというわけですか? 
 あなたは「党の欠陥をあれこれ云々してその党の一員としての責任から逃れようとする人々に党改革はできない」と断言しています。実に勇ましい発言です。党改革というのは、どうやらスーパーマン的党員だけによって担われるようです。党そのものが、スーパーマンによって担われているわけではないというのに。悩み苦しみながら、ある活動はするが、別の活動はできないという多数の党員を抱えながら、党というものは成立しているのです。党改革の事業もまたそうです。その点を配慮していただきたいと思います。