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一般投稿欄

復元力としての責任論

2001/8/5 赤根、40代、自営業

まず初めに編集部に対する私の要望を書かせて頂きましょう。S・T編集部員さんは「われわれ」と自称されておられますが、これはあなたの投稿が編集部員の総意であることを示されているのだと判断致します。率直に申しまして、そのような投稿スタイルはおやめになられた方がより自由な議論が展開できるのではないかと思われます。一つの党派性を背負った「われわれ」ではなく一人の人格としての「わたし」としてご意見を頂けたらと思う次第です。編集部を一様な政治集団と自己規定し、なおかつこの場を政治闘争の場と位置付けておられるならともかく、自由な討論、意見交換の場として発展させようとのご意思がおありならば、是非ともそうされることを要望致します。

以下、本題に対する意見を書きます。

○S・T編集部員氏
ここで言われていることで非常におかしいのは、「『新社会党だって革新陣営だ』という議論がありますが、同党の消長には同党の党員が責任を負い、共産党の消長には共産党員が責任を負う。それぞれがそれぞれに責任を果さずして革新勢力が前進するなどと考えるのは無責任な幻想なのです。『どっちでもいい』なんてことは断じてあり得ません」という下りです。これは一般論としてはまったくそのとおりです。しかし、われわれがこの意味での責任をいったいいつ拒否したのでしょうか?

 私は大枠としては貴編集部の日頃のスタンスを積極的に評価しています。疑問点も幾つかあるわけですが、積極面を多としている私としてはバナー問題への対応だけで貴編集部を取り立てて批判する必要は感じておりませんでした。私が前回投稿時に念頭に置いた投稿は月さんや石狩平太さんのものです。すでに論点はバナーとして掲載された片言隻句の是非論には無く、その議論過程で私が注目した「党員の責任のあり方」論に移行しております点、ご留意下さい。いずれにせよ今回編集部から反論を頂戴した以上は当方の主張を更に展開させて頂くこととします。ただし、論点は私が本質的と考える部分に絞らせて頂きますので、全ての点には返信致しません。

○S・T編集部員氏
 赤根氏の議論によれば、共産党に投票を呼びかけることが共産党員としての資格を構成するようです。

 私は党員の責任のあり方について私見を述べたのですから、それを党員の資格問題にリンクさせて批判されるのは不本意なことです。結果として両者に重なる部分はあるのでしょうが、私は党員を管理統制する立場から好んで論じられる「党員の資格」問題などに関心はありません。それについては一切論じておりません。まして“「いやなら共産党を辞めろ」と恫喝する官僚と同じ”などと言うのは字ヅラを勝手に加工した上での極めて表面的な評価だと言わざるを得ません。このような批判は党中央の悪しき伝統=批判者を敵と見なし、その打撃のためには相手の主張の誇張・歪曲も辞さず=を彷彿とさせるものです。この種の安易な批判態度はあなた(がた)のものを含め嫌煙家氏に対する幾つかの批判投稿にも見られたものですが、それこそ皆さん方が克服すべき「内なる敵」なのではないでしょうか。敵と言って語弊があるなら「弱点」と言い替えてもよろしいのです。

尚、離党すること自体は何ら恥じることではありませんし、離党そのものをもって批判されるべきでもありません。むしろ党員として何をするでもなく党費と票だけ投じるほかは漫然と過ごしている人々、あるいは党の路線に何の疑問も持たずに日々のルーチンワークをこなしている人々、これらの「右に倣え党員」や「模範党員」たちこそ批判されるべき人々です。党指導部にとってはそういう人々こそ「党員の資格」を充足しているのであり、管理統制にはうってつけの層なのです。実際、各級被選出機関を支えているのはこれら大量の無批判層です。党勢拡大と銘打って馬でも鹿でも入党させて行けば党指導部の地位はますます安定することでしょう。大衆的前衛党建設の過程は事実としてそのような過程でもありました。「いやなら共産党を辞めろ」という議論はそうした現状を維持容認する人々の口から発せられるものです。恐らく皆さん方も一度や二度はそんなメールや投稿を浴びせられたことがお有りでしょう。

○S・T編集部員氏
 あなたは「どこまでも共産党員としての責任を負い切る」と安直に言われています。しかし責任ないし義務というものは、その権利と均衡すべきです。いったい個々の共産党員にどのような権利が与えられているというのでしょうか?
 「迷走する共産党になおも投票を呼びかける」という重い責任を押しつけながら(しかも、さもなくば離党せよとまで恫喝しながら)、これら党員の権利 はまったく省みられていません。

党員としての責任は二つの方向で問われています。一つは、党との契約履行責任とでも言うべきもの。あなた(がた)が権利との均衡を問題にされているのはこれでしょう。民主集中制の善し悪しを棚に上げたとしても、民主の欠落した集中は党員に対する重大な権利侵害であり官僚主義そのものであることは論を待ちません。そのような党内環境で強いられる「責任」がいびつなものとなるのは必定、それは当然理解しています。

もう一つの責任は、党員としての社会に対する責任です。共産党が社会に対する何らかの改革理念を持つ人々の結合した組織である以上は、党そのものとの関係を離れた「社会的責任」は党員個人の中で多かれ少なかれ常に自覚されているはずです。恐らくはバナーでの呼びかけはこの種の責任論を踏まえてのことと推察されます。しかし、私の論じている責任論は前者と後者を統一的に捉えようとするもの、より正確に言えば不幸にも二つの方向に分裂してしまっている責任論を統一する方向付けをもったものです。それが私の「責任論」の趣旨です。

党中央がどれほど混迷していようとも、どれほど堕落していようとも、党員として踏み止まる限りは個々の党員は対外的にその責任を背負わなければならないはずです。党外から見ればそれが当たり前のことです。「党員の権利」云々はそれこそ党外には通用しない内部論理なのですから。もしこれを否定するのであれば、一般論としても組織や集団に属している者は当該組織や集団への批判から自身を遠ざけることも可能となりましょう。日本人の戦争責任論などナンセンスということにもなります。そのような構図を「無責任の構図」と称することに編集部も異論は無いものと推察致します。

「党中央が悪いのだから自分に責任など無い」と他人顔をしていられる党員は、他人顔をしている分だけ自己の内部でも社会に対する責任の重みから解放されているはずです。私の疑問は、そのような党員が果して党の改革にどこまで真剣になれるのか? 共産党がダメなら他党派でもよいなどと逃げ道を用意している党員が党改革に死力を尽くせるのか?という点にあります。もちろん編集部が他人顔していると論難しているのではありませんが、それに通じるスキがあったと私は感じています。他のどの党派でもなく他でもない日本共産党への支持を真っ直ぐに呼びかけねばならない立場に立ちきってこそ、その者の党改革への模索は真剣かつ切実なものと成り得るのではないでしょうか? これは一つの弁証法だと思いますが、いかがでしょうか?

戦後日本において新左翼勢力は四分五裂の道を辿り、その多くは既に消滅あるいは無力化してしまいました。いろいろな要因が挙げられると思いますが、一つ言えることは、それぞれが所属する党派の一員としてとことん責任を負い切ろうとせず安易に派閥や新党を結成し続けていったということです。「この党はダメ、我々は別の道を行く」と。それは「社会に対する責任」を自覚した上での「正しさの選択」だったのかもしれませんが、その選択の都度自らが旧組識で負っていたはずの責任を捨て去って来たのではなかったのか? 分裂の過程は弁証法的な自己改革の契機を捨て去る過程ではなかったのか? そのようなことも私は念頭に置いています。

○S・T編集部員氏
 あなたは「党の欠陥をあれこれ云々してその党の一員としての責任から逃れようとする人々に党改革はできない」と断言しています。実に勇ましい発言です。党改革というのは、どうやらスーパーマン的党員だけによって担われるようです。党そのものが、スーパーマンによって担われているわけではないというのに。悩み苦しみながら、ある活動はするが、別の活動はできないという多数の党員を抱えながら、党というものは成立しているのです。党改革の事業もまたそうです。その点を配慮していただきたいと思います。

人間は生まれてこのかた社会的存在であり、社会の中での自らの位置を確認し、そこから自己に課せられた責任を導いた時に人間本来の「強さ」を発揮できるのではないでしょうか。上に書いた「二つの方向での責任」が党中央の迷走によって分裂させられている現状、これが多くの良心的党員を苦しめ、また本来の力を削いでいるという現実があろうかと思います。
しかし、《党員として踏み止まる》以上は、その分裂を是正する方向でこそ力を発揮して欲しいと思います。私は異分子排除によって維持される自閉的な「統一と団結」などに与するものではありませんが、「二つの方向での責任」を自覚した人々の下からの復元力は大事なことだと考えます。それは社会から閉ざされた自閉運動ではなく、安易な新党運動でもなく、社会と党を根っこの部分で結び付ける自己革新的な運動たり得るはずです。そして、復元力を担う基体は歪んだ基体それ自身なのであり、復元力とは歪みを「自らの歪み」として深く自覚した基体のみが持ち得る力なのです。基本的に貴編集部もその方向で尽力されておられると観測しておりますが、今回のバナー問題での編集部見解にはその道からのズレ、あるいはそこにクサビを打込まれるスキがあったと私は認識しています。