江東江戸川総支部に所属する新社会党員です。
8月4日に総支部に提起した参院選総括私案を下敷きに問題提起します。(私の立場上、当然ながら)新社会党を中心に展開していますが、提起している問題は共産党ほかにも適用できると考え、あえて「さざ波通信」に投稿いたします。かなり長い文章ですがおつきあいください。
<事実を直視した総括の重要性!新社会党の政治生命は危機に陥った>
新社会党は参院選挙に惨敗した。
週刊「新社会」8月7日号には、1面に矢田部委員長名の「声明」が掲載され、2面の「道しるべ」に「情勢は後退を許さぬ-敗北から学ぶ総括を-」との記事(以降「主張」と言う)が掲載された。
選挙の直後でもあり、十分吟味された「声明」「主張」ではないことは承知しているが、それでもこれらの「総括」には致命的な欠陥があると言わざるをえない。
党内討論を活発化させず、総括が「声明」「主張」の内容でまとめられていくならば新社会党は「何も学ばず」「何も変わらず」歴史の屑箱に消え去るのみと言わざるをえない。
わたしたちはなによりも事実を直視しなければならない。国会議員選挙3連敗、今回の選挙結果によって国会議席が新社会党にとって遠いものになってしまったという事実をつきつけられたのである。まさに新社会党は、政治生命の危機に直面することになった。
わたしたちが、国民と国政に責任を負う「政党」にとどまるのか、「宗派」へと転落するのか、この総括と党の再建方針にかかっている。
<「声明」「主張」の致命的欠陥>
1、「声明」「主張」は、新社会党の敗北「のみ」を語っていてそこに国民がいない。まず、ここに致命的な欠陥がある。自公保与党の参院における安定過半数の占拠(逆に言えば野党、革新政党の敗北)に言及していないこと自体に、参院選への取り組みの誤りが端的に示されている。つまり、国民の利益の上に党の利益を置いているのである。江東江戸川総支部は、昨年の衆院選以前から一貫してこのことを指摘しつづけてきた。
2、「声明」「主張」の「頑張る」総括からは宗派への道しか生み出されない。「声明」では、新社会党敗北の理由として、
では「どうするか」と言えば、こうした流れをはねかえすだけの「運動・組織・財政のすべての面で」の力不足で、「新社会党の理念や政策の正しさ」を「多くの人々が自らのものと受けとめるような運動を全力で展開する必要があった」(のに出来なかった)から、これからは「労働者の運動」「住民運動」などすべてのたたかいの中に「全党員が飛び込む」ことを方針とし、これをもって「初心に還る」と言うのである。
しかし、「新社会党に共感を寄せていた層」や「その政策をある程度理解し支持していた」「かなりの層」がなぜ「他党に投票」したかを分析せず、「労働運動」や「住民運動」に全党員を飛び込ませて「固い支持層」を増やそうなどということは、「創価学会」「革マル」と同様のある種の「宗派政治」に新社会党を導くことになる危険性さえある。
無党派層の増大、浮動票の増大は、「民主主義の定着・発展」として新社会党はこれを大いに歓迎・評価すべきである。無党派層、浮動票に支持される政策・方針を練り上げることこそ多数派形成の論理であり、民主主義的な変革の路線であり、新社会党の任務であると言わなければならない。
3、「声明」の総括方向は、下部機関・党員への責任転である。
さらに考えなければならないのは、「声明」も認めるように「前回に倍する努力」を行って「得票数が6割も減った」というのに、「力不足であったから、もっと頑張ろう」というのが「科学的な総括」と言えるのかということである。このような総括から「現実的で積極的な方針」が生み出せるのかということである。
「理念や政策は正しかったが、力不足で敗北した」「力をつけるために、もっと頑張って闘おう」などという総括は新社会党が忌み嫌う戦中の大本営発表に劣らぬ観念論であると言わねばならない。「全党員が飛び込む」などと言う言葉は、わたしには「爆弾を抱えて敵艦に飛び込め」という非人道的な特攻隊のニュアンスでしか聞き取れないのである。
このような視点からの総括の行きつく先は、「懸命に奮闘した全国の党員・支持者に心からの感謝とお詫び」という言葉とは裏腹に、方針自体の誤りの検討抜きの戦犯探し=しかも都道府県本部、総支部、党員への責任の押し付けでしかなくなるだろうことは明らかである。例えば、徳島県の事例を持ち上げながら、東京都本部などがこき下ろされることが予想されるのである。
実は、「声明」において、唯一興味深い総括は「つまり、新社会党は、この間、固い支持層を増やせず、むしろ党勢は後退していた」という点にあるが、これも極めて抽象的な総括にとどまっている。実際にどうであったか明らかにすべきである。
江東江戸川総支部は、「来る参議院選挙に選挙共闘で臨むよう求める意見書」において「党員数」「機関紙」「党費の徴収状況」はどうか、「運動は高揚しているか」を問い合わせ、その実態を踏まえて選挙方針を確立すべきことを求めてきたが何の回答もなかった。しかし、実態として党員が減少し、機関紙が減少し、党費の納入状況が悪化し、運動も高揚していなかったとするならば、小泉人気の影響を語るまえに今回の独自候補擁立の選挙方針にどこまで現実性があったのか中央本部の方針こそ、まず根本的に再評価しなければならないのである。
<素直な総括は「方針が間違っていたから敗北した」と認めること>
総括のポイントは、3つある。
1、 国民の小泉「変革」への「期待」は、国民生活の不安と危機、従来の自公保政権への「忌避」の表われであり「痛みをともなう改革」への国民の支持も「正当なもの」と認めること。
敗北の真の原因は、野党や革新政党が、国民と同じ目線に立たなかったところにある。国民が、「痛みをともなう改革」を是認しようとしているときに、「甘い言葉」だけをばら撒き「改革」に反対する「保守」の立場に立ったことが敗北の真の理由であること。
その前提に立って、国民に必要な「改革」とは何か、その改革はどのような痛みを伴うか、その痛みを癒す手当てとはなにか、その改革は国民にどのような未来を保証するのか、この改革を推進するためにはどんな政治的な態度(投票行動)をとるべきか、を明らかにすべきだったのである。
国民が「小泉」に求めているのは「集団的自衛権」や「靖国参拝」や「京都議定書、ミサイル防衛網でのアメリカ追随」ではなく「ハンセン病控訴せず」「政官財の癒着の打破」「無駄な公共事業の削減」「特殊法人などの廃止縮小」「アメリカにも中国にも北朝鮮にもハッキリものが言える日本」であることを徹底的に明らかにすべきだったのである。
現在の危機に対して、国民は「変革」を求め、小泉は「変革」を口にし、革新政党は「守り」を口にしたところに、敗北の根源的な理由があったのである。サービス残業の規制や最低賃金の引き上げにも(中小零細企業にとっては)痛みが伴うのだ! それでもやらなければならないことを説明する必要があったのだ!
2、 革新共闘・野党共闘を追求しなかったことを決定的な誤りとして認めること。
江東江戸川総支部は、「都本部大会での発言」や「参議院選挙に臨むにあたっての意見書」や「総支部定期大会決議」などを通じて、一貫して「共同」「革新共闘」「野党共闘」の必要性を主張してきた。
中央本部が、革新共闘・野党共闘についてどのように考えてきたのか、すべてを明らかにして総括しなければならない。
わが党が非武装中立・護憲の党であるのは結構なことであるが、だからと言って「中途半端な」護憲派や専守防衛派を、「ただ」批判して共闘しない(多数派形成の努力をしない)というのは、完全なる誤りであり利敵行為であり国民の願いに背くものでしかない。国民のための政治の実現のために、どこに多数派の線を引くのか、このことこそが政党に問われているのである。
わたしたちは、新聞などの世論調査、都議選結果などから、もっと謙虚に学ばなければならなかったのである。小泉の上昇気流の中にあって自公保が完璧な選挙共闘を行っていたときに、逆風下にある革新政党がバラバラに闘っていたという事実をこそ、まず総括すべきではないのか。だから小沢さんはすごい!とわたしは思うのだ。「異常な小泉人気」(新社会党)とか「風速100mの小泉台風」(民主党)とかを語っているが、その台風は参院選で急に吹いたのではない。世論調査や都議選で十分わかっていたのである。にもかかわらず、何の対策もせずに吹き飛ばされてしまってから、異常な人気とか100m台風とか言っても泣き言であり後の祭でしかない。
3、 党内討論や党内民主主義、そして国民の意思の尊重が決定的に不足していることを認めること。
総括にあたって、また総括を通じて、新社会党は徹底した討論の自由、機会の提供を行わなければならない。
考えてみれば、自民党は、自公保の与党体制や森政権への国民の批判を受け止め、党員投票を拡張して小泉総裁を誕生させる民主主義を有していた。
社民党や共産党や新社会党はどうであろうか。選挙だけでなくこの面での民主主義でも負けていたのではないか。
今回の総括で、新社会党が獲得しなければならない最大のものとは、「方針の再検討なしの今まで以上の党員の頑張り」などではなく、世界中のどの党よりも進んだ「開かれた民主的な党風」でなければならない。「その党風の中で」党員は事実に基く客観的な総括と討論を行い、無前提的に「正しい(とされる)方針」のもとにもっと頑張るのではなく、自らが作成に参加した「頑張れる方針」のもとで活動を再構築し、国民の声を聞いて方針を鍛えていく必要があるのである。
そのような党風のもとでの、新社会党の方針は、「国民の多数派形成という思想」にもとづく方針となるであろうことを私は確信している。