『諸君!』2001年9月号に、石原慎太郎著「翔べ、日本よ!」という記事が掲載されています。この記事の中から、左翼陣営の方々にも賛同できると思われる石原慎太郎の言葉を列挙します。
・日本人自身も……日露戦争を戦い、奇跡の勝利を収めて以来、ミイラ取りがミイラになって、自分自身も植民地を持つようになった。
・いつ、どこへ、とも決めずにとにかく「首都移転」という馬鹿げた提案を突然言い出し、それが国会で決議されてしまった。
・……日本中で跋扈している携帯電話やインターネットで得られる情報を、あたかも純粋な、本物の情報であり、交流交際と錯覚してしまいかねない。たとえば、携帯やパソコンでのメル友が、人生のあの部分を共有し合える本当の友人たり得るのか。
・つまりアメリカは、それ(注:世界の金融資産)を全て自分の意思で使おう、ということでアメリカン・スタンダードをグローバル・スタンダードと称して世界中にそれを押しつけている。
・大事なのは、この可能性(注:日本民族の優れたDNAによってもたらされる可能性)が絶対的なものだ、と信じてはならないことです。日本が優れていて、他が駄目だ、と言っているのでは決してない。それでこそ、かつて関東軍の参謀がそういった絶対的な、高ぶった自負を持ちすぎたために馬鹿げた戦争を始めてしまったのですから。
東京都は先日、都が独自に認証した保育園をスタートさせましたが、これは決して石原慎太郎の人気取り政策ではないと思います。三国人発言や自衛隊演習で物議を醸した石原慎太郎ですが、そういう批判をかわすために都独自の保育園を作ったなどと、そんなニュアンスは微塵も感じられませんでした。東京に住んでおられる方のおそらくほとんど全部が、このように感じているに違いないと私は思います。
日本共産党の「売り」はいったい何でしょう?それは、「日本共産党こそ未来に向けた壮大な展望を抱いている政党」である、こうしたイメージ以外、ないでしょう。ではなぜそれが可能なのか?それは、日本共産党が科学的社会主義を理論的支柱にしているからです。こういうふうに日本共産党から常々説明されています。では、科学的社会主義にもとづく壮大な展望を日本共産党は国民に提示しているでしょうか? 「痛みを伴う改革」という言い方によって、「痛み」という自分の陣営に不利な言葉をあえて使ってまで改革を推し進めると、そういう不退転の決意で臨んだ小泉純一郎に対して、日本共産党はいったい、科学的社会主義にもとづく壮大な展望を示し得たのでしょうか?
消費税を3%に減税する、社会福祉を切り詰めない、サービス残業をなくす。これらの政策が果たして、有権者にとって「壮大な展望」と認識されたでしょうか? そうでなかったことは、選挙結果が如実に物語っていると思います。
日本共産党が2000年衆議院選挙、2001年東京都議選、2001年参議院選挙で惨敗した真の理由は、日本共産党がもはや、日本の進むべき壮大な展望を示し得る政党ではなくなったということを、有権者が肌身で感じ始めたことにあると思います。
2001年東京都議選で日本共産党が惨敗したのは、決して、日本共産党が石原慎太郎に対して是々非々の態度を取ったからではないと思います。もしこのような分析が正しいなら、直後の参議院選挙で日本共産党が小泉純一郎に対して是々非々の態度を取らなかったにもかかわらず惨敗した事実を説明できなくなります。この意味で、「さざ波通信」の東京都議選の分析は不十分なものだと思います。
参院選において有権者は、自由連合のゴミタレント候補を全滅させました。自民党の末広まき子も二院クラブの青島幸男も落選させました。有権者はもはや、ゴミタレント候補には見向きもしなくなったのです。日本の有権者はもはや、「かつての日本の有権者」ではありません。
『諸君!』2001年9月号で、石原慎太郎がレーニンについて言及している部分を引用します。
・レーニンもこう言っている。「ヨーロッパの近代の繁栄は、植民地における豊富な天然資源の一方的な略奪、活用と、現地における奴隷に近い安価な労働力の使役の上に築かれた」まさにそのとおりだと思います。
石原慎太郎にすり寄ったがために日本共産党は東京都議選で負けたのではありません。小泉純一郎にすり寄らなかったがために日本共産党は参院選に負けたのではありません。
日本共産党が石原慎太郎に是々非々で臨んだのは、石原慎太郎のやっていること、言っていることを全否定できなくなったことが理由なのであり、それはきわめて当然のことです。
日本共産党が東京都議選で惨敗したのは、日本共産党が石原慎太郎に対して是々非々の態度を取ったからではなく、石原慎太郎を超える展望を示すことができなかったからです。日本共産党が参院選で惨敗したのは、日本共産党が小泉純一郎のいう構造改革に対し、「すべてノー」の態度を取ったからではなく、小泉純一郎を超える展望を示すことができなかったからです。
「石原慎太郎に是々非々だったから東京都議選で負けた」などという卑小な分析はもはや通用しないのです。石原慎太郎の考えに謙虚に耳を傾けるなら、日本共産党が石原慎太郎に対して是々非々の態度を取ったのはきわめて当然なのだと、そういうふうに認識できるはずのものです。小泉純一郎に対しても、いずれ日本共産党は是々非々の態度を取らざるを得なくなるでしょう。是は是であり、非は非なのです。これはこれで、ごくあたりまえの態度であり、立派な態度です。こうした態度を取ることが日本共産党の集票能力を低下させているのではありません。日本共産党は独自に日本の将来展望を示すことができなくなっている。これこそが、日本共産党の集票能力を低下させているのです。
利潤第一主義ではない社会をめざすのが日本共産党のロマンです。しかし、「利潤第一主義ではない社会」とはいったいどういう社会なのか、日本共産党は説明しようとしません。「利潤第一主義ではない社会」がいったいどういう経済システムで動くのか、これを日本共産党は説明しようとしません。日本共産党がこうしたことを説明した実績がありますか? 説明した実績もないくせに、「利潤第一主義ではない社会」がいずれ来るんだと、それが日本共産党のロマンなんだと、こんな意味不明をいくら言ったところで、こんなものに賛同する有権者のいるはずもないのです。
「利潤第一主義ではない社会」とは、いったいどういう社会なんですか? 「利潤第一主義ではない社会」における経済システムは、いったいどういうシステムなんですか?儲けたい、利潤を得たい、人よりいい生活をしたい、人よりいい思いをしたい。こうした素朴な欲望が日本共産党の批判する利潤第一主義社会を支えています。日本共産党はしかし、これをくつがえそうというわけです。ならば、「利潤第一主義ではない社会」で生きる人間の儲けたい、利潤を得たい、人よりいい生活をしたい、人よりいい思いをしたいという欲望を、いったいどうするおつもりでしょう? それとも、日本共産党のいう「利潤第一主義ではない社会」に生きる人間は、儲けたい、利潤を得たい、人よりいい生活をしたい、人よりいい思いをしたいという素朴な欲望を「超越した人間」だとでも言うのでしょうか?ならば、そういう「超越した人間」はどのように生まれるのでしょう? 日本共産党のいう「利潤第一主義ではない社会」には、儲けたい、利潤を得たい、人よりいい生活をしたい、人よりいい思いをしたい、こうした素朴な欲望を抱く人間は存在しないのでしょうか? だとしたら、それはいったい、どのようにして可能なのでしょうか?
こういうことに対して、日本共産党の説明がないのです。
こうした素朴な疑問に日本共産党は答えることができません。日本共産党は、自分の提示している将来の社会=「利潤第一主義ではない社会」に対する素朴な疑問、質問に何一つ答えることができないのです。これではねぇ、いくら党員の尻を叩いて「日本共産党の本当の姿を知ってもらうことが大切だ」と言ったところで、「日本共産党の本当の姿」自体が説明のない、中身のない、空疎な戯れ言なのですから、尻を叩かれた党員にしても、何を言っていいか、何を答えていいのか、言葉に窮するのがあたりまえではないかと思います。
今後、日本共産党が選挙に勝つためには、日本共産党の壮大なロマンである「利潤第一主義ではない社会」の具体的な構想を示すことです。自民党がやってきた悪政の手直しではない、日本共産党独自の壮大なロマンを示すことです。「社会主義の青写真など示せない」などと、自信満々にふんぞり返っている場合ではありません。社会主義の青写真を示すことが大事なのです。
小泉純一郎はロマンを示すことによって選挙に勝ちました。日本共産党はロマンを示すことができなくて選挙に負けました。
強大な党を建設することが大事だとか何だとか、そんな旧態依然な総括しかできない常任幹部会は解散させるべきです。赤旗には連日、常任幹部会の選挙総括声明に賛同する意見が載っていますが、赤旗がそんな茶番を書けば書くほど、日本共産党は今後ますます凋落することでしょう。