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一介さんへ:靖国問題

2001/9/12 平山薫、20代、会社員

><質問>質問攻めにするのは本意ではないが、今一度、骨を折っていただきたい。ご容赦を。
>1について:我々の側の非論理性とは何であるか、具体的にご指摘願いたい。
>2について:平山氏はこの問題を、「思想全体」とは切り離し、「是々非々」「個別」において、把握することが大事だと強調したいものと推測する。歴史に対する捉え方はこの問題と関わらせるべきでない、というお考えか。であれば、そのような方法を用いる利点とは何か。参拝を擁護する保守層に接点を見出せるからか。
>・首相の靖国参拝擁護論にたいして、思想全体でくくるのではなく、あくまでも個々の問題として、他との連関から切り離して扱うべきだ、という趣旨と解釈してよいか。
><感想>
> 平山氏自身が「私の考えが、その一部において自由主義史観と同一であるといわれればその通りでしょう。」と述べているとおり、首相の靖国参拝を問題とするには、歴史観は必ず付随するものであろう。それを遮断するのなら、問題の核心を「首相の「私的参拝」は許されるか否か」という点に絞り、さらにもう一歩進めて問題を限定するしかないと思われる。「さらに問題を限定する」とは、「日本の文化的背景において、首相の私的参拝は許容されるか否か」も考慮して良いだろうが、通常問題となるのは憲法に違反するか否かである。
>3について:平山氏は特に歴史的事象や歴史観を問題とせずに、首相の参拝を擁護する。歴史的事象の捉え方を含む歴史観などの問題と切り離すべきと考える平山氏であるから、それが当然である。
 だとすれば、平山氏の論理の核心とは、「首相の靖国参拝は、私的なら許される」という点につきるのではないか。許される根拠とは、平山氏によれば「日本の文化」だから、ということになろう。
>・首相の靖国参拝は私人として認められる。その根拠は、それを認めるのが日本の「文化的背景」だからである。したがって外国からの首相の靖国参拝批判は、文化に対する干渉である。と解釈して良いか。

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 質問への回答になります。

1 左翼の議論の論理性のなさ

 今回の一介さんからの反論に関しては、論理性はあります。こういう議論をしていくことが重要なのです、という事です。

 しかし、多くの党員は、細かい反論をせずに、いきなり、アジア人の受けた残虐行為の話になります。
 アジアの人たちに、日本人化の教育を実施して不当な支配をしてきた日本が糾弾されるのは当然です。この話は理解できますし、糾弾されてしかるべきです。
 で、勉強不足の党員は、更に、日本は軍国主義への道を進むとか、簡単に話を飛躍させてしまいます。ちょっと待て。話は、墓参りの話ではないのか? 軍国主義の話なのか? 首相のプライベートの話じゃないのか? 首相は、公務として、軍国主義を推進していくのか? その話が何故でてくる? 是々非々で、墓参りに関して認めたということは、軍国主義を認めたことになるのか?
 何故、そこまで話を飛躍させる必要があるのか。多くの人は、是々非々で墓参りを認めたことと、軍国主義化は別件です。軍国主義化は、是々非々でそれはそれでまた判断するのです。ここでの話題には入っていません。

 じゃぁ、共産党の政策に賛同した人は、その分野の政策全てに賛成した人なのか? そこまでの判断をしないと、意見を述べられないのであれば、自主独立の日本、基地のない日本という、共産党の展望が認められない人は、沖縄で米軍兵士による暴行事件が起こったときに、米軍に文句を言ってはいけないという事になるのか?ということです。
 この場合も、是々非々で論じているわけでしょう? 沖縄の暴行事件を許して良いわけないです。日米地位協定も、悪法であり、不逮捕特権の様なものは見直すべきです。治外法権は、国家の尊厳を否定したものであり、ましてや、暴行事件など、何処の国でも犯罪と認定されるものに関しては実施されるのは、許されないことです。
 この事が、米軍によるアジア蔑視に起因し、沖縄の人たちにとっての多大な不安を与えること、これらの問題で論じることが必要なのであり、我々の意見と賛同できる人が多いのは事実でしょう。確かに基地問題全体、日米安保のない日本などの問題抜きに考えられないのは事実ですが、賛同の意志を以て基地問題に関する共産党の意見の全てを受け容れたものであると認識されても、無茶苦茶な論理である、言いがかりであるとしか答えようはないでしょう。

 靖国問題の、私的参拝の部分のみで自由主義史観を認めたと断罪されることも、ほぼ同様の無茶な論理であると認識しますが、いかがでしょう?

2 及び感想

 靖国が社会問題になったのは、戦犯が合祀されていることが明らかになった1979年以降です。その時に、大平内閣は公式に参拝した。そこからの紆余曲折はあるにしろ、戦犯が合祀されていることが明らかになってから表面化した問題であるのだから、それ以前には、問題視されていなかったことですから、基本的に、合祀の問題が発端です。それ以前の時代には、疑問視されていなかったのです。 過去の経緯から、戦犯が合祀されていなければ合憲であることは明白です。
 合祀をしたのが、絞首刑になった戦犯も含んでいたから問題になったのであり、これ以外のものは問題の中心にはなり得ません。 つまり、合憲、違憲に関しては、戦犯の墓参りに行くことは合憲か違憲か、と言うことになるのでは?

 私見としては、 国家を代表して行くということ、右翼的な思想的背景を政策に反映することは許されません。日本国民の総意として、靖国を認めているわけではないです。国民の合意の範囲でなければ公私混同です。しかし、個人の信条で行くのであれば、で、戦犯の合祀を認めるか、と言うことに関しては、日本人の宗教観、慣習からいくと、問題はないでしょう。我々の憲法は、日本国憲法であり、他国の憲法ではありません。

 この点を明確にすることが重要であり、保守層に理解を得ることが目的ではありません。日本人としての立場を、主張を、宗教的背景を理解して貰うこと、戦争への反省とこの問題は別件であるという事を理解して欲しいのです。

3 日本人の死生観

 合憲であるということ、日本人の死生観の文化的背景に関しては、個人の主観による部分が大きいですから、合意できるとは限りませんが、私が納得している部分を簡単に記載します。
 日本人の死生観としては、「既に死で罪をあがなっており、死者をむち打つような風習はわが国にはない。死ねば、敵も味方も身分の上下もないというのがわが国の死生観」、「死者に鞭打つのは良いことではない」
 と述べる人もいる。当然、死者ですから、敵味方もなく対等である。魂を奉るのに重さの違いはない、という考え方になります。一般の戦死者、戦犯の区別なく合祀することは問題なのでしょうか?この考え方に違和感がないと言うことです。

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 問題を明確化、細分化することが目的であり、誰にでも理解できる論理を持とうと言うことであり、折り合いをつけることが目的ではないつもりですが、いかがでしょうか? ま、今までの我々の靖国論を全面的に見直そうというのですから、簡単に合意出来る物ではないですけれど。