平山氏が9・12付けで、私の疑問に答えていただいた。返答が遅れて申し訳ないです。平山氏は首相の靖国参拝の擁護論を展開しており、左翼の「首相の靖国参拝」反対論は非論理的だとも述べておられる。平山氏の擁護論を批判させていただく。
1、 首相の「私的」靖国参拝という平山氏の前提
平山氏は小泉首相の参拝を「私的」であれば容認されるとお考えのようだ。しかし、小泉首相本人は、自民党総裁選の時点から、靖国参拝を公約に掲げ、その後の発言をみれば、一貫して「参拝の私的、公式の区分は無意味だ」というメッセージを発してきた。彼の真意からして、平山氏の言う「私的」参拝ではないことは明白である。政府見解はともかく、彼自身の意図は「私的」ではなく、そのような区分は無意味(無理)として参拝したのである。彼が自民党総裁選からの公約に掲げてきたことが、平山氏の「論理」のように、単なるプライベートな問題であると片付けることには無理がある。小泉首相がどんな思惑で靖国参拝を強行したのかを問うことは、何ら非論理的ではなく、論理的な思考である。
そもそも首相の「私的」と公言しての参拝についても、憲法に抵触するとの見解があり、また、公私の区別をせずに参拝することも、憲法に抵触するという見解がある。
「憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授は…「私費で公私の明言なく参拝したとしても、首相が戦前戦後を通じて国家とかかわってきた靖国神社に参拝することは、特殊で伝統的な制度に乗る意味を持ち、憲法に抵触する」としている。」(共同通信HP)
「水島朝穂・早稲田大教授(憲法学)は、判例をひいて「首相が靖国だけにいくというのは、そこが特別であるという印象を国民に与え、国の機関が特別のかかわり合いをもつことを意味する」「私的、公的の区別は不可能に近く、(私的と称しての参拝も)違憲になるといえるのではないか」とのべました。」(日本共産党HP)
平山氏のように、「私的」であれば首相の靖国参拝は憲法上クリアされていると無批判に前提することには賛同できない。このようなことから、平山氏の擁護論の前提である「私的」参拝という認識は妥当ではない。
2、論理と非論理
平山氏は、首相の私的参拝を合憲とし、さらに、それが容認される根拠として「日本人の死生観」を挙げる。それによって、A級戦犯合祀の問題がクリアされるという。ここで平山氏は左翼の非論理性を非難する。首相の靖国参拝に日本の軍国主義、過去の戦争への反省といった問題を絡める反対論は、別件の持ち込みであり、非論理的である、と。
平山氏は論理、非論理というが、平山氏のいうそれらは、論理的に扱われていない。平山氏の論立ては、「別件」の持ち込みは非論理的であるという主張のはずである。しかし、何が「別件」であるかの基準は不明である。だから「日本人の死生観」が「別件」とならずに、自説の擁護論に組み込まれても平山氏は矛盾を感じていないようである。このような論立ては、論理的とは言わずに恣意的という。「別件」除外の主張と、「日本人の死生観」は「別件」ではない理由、しかもご自身が述べているように「日本人の死生観の文化的背景に関しては、個人の主観による部分が大きいですから、合意できるとは限りません」(平山氏)というものが、「別件」の持ち込みではなく論理的なのだ、という説得的な理由が平山氏には欠けている。
もっとも、問題なのは、こうした形式論理ではなく、首相の靖国参拝をどう捉えるか、靖国神社をどう捉えるか、の問題である。結論的に言えば、靖国神社のもつ歴史を消し去って靖国神社を捉えることは、困難であり、不自然である。靖国神社に対しては、その特殊な歴史から、是非を含めさまざまな価値観が絡みついている。こうした靖国神社を考える際に、価値観や歴史観(将来観)が絡み付いてくるのは当然である。首相の靖国参拝推進勢力と反対勢力がこの問題で大きく対立するのは歴史観をめぐってであり、それは何ら非論理的な対立でもない。
3、「日本人の死生観」と首相の靖国参拝の整合性
平山氏は「死ねば、敵も味方も身分の上下もないというのがわが国の死生観」、「当然、死者ですから、敵味方もなく対等である。魂を奉るのに重さの違いはない、という考え方になります。一般の戦死者、戦犯の区別なく合祀することは問題なのでしょうか?」などと述べている。
靖国神社が死者を選別する神社であることは周知の事実であろう。神社本殿に祀られるのは日本の軍人を中心とした戦死者である。古くは明治政府に朝敵とされた会津藩の兵士らも本殿には祀られない。他国の兵士も本殿には祀られることはない。(このような靖国神社の本旨に合わない死者の霊は、壮麗な本殿とは別に区別された「鎮魂社」に祀られる)
「死者ですから、敵味方もなく対等である。魂を奉るのに重さの違いはない」ことを、何か少しでもこのような靖国神社が体現しているのか?いったい、平山氏は何をもって「日本人の死生観」と靖国神社とが合致するというのか、まったく理解不能である。私は「日本人の死生観」を否定し対立するのが靖国神社だと思っている。
4、感想
平山氏は従来の革新側の主張をした際、論破され、革新側の非論理性を見出したというが、私はその革新側の難点を知りたいと思って投稿しているつもりである。それを明らかにしてもらいたい。このままでは、平山氏の難点であり、革新側の難点だとは私にはとうてい思えない。