今回のテロについて論じる前に、アフガニスタンについて最低限の知識を持ちたいと思われる方は山本芳幸氏の「カブール・ノート」をぜひごらんになってください。ネット上で簡単に読めます。中東問題についてもイスラムについても何も知らなかった私は、山本氏の報告を読んではじめて日本国内の議論に現実と遊離した部分が多いことがわかりました。以下の私の文は無視してくださってかまいません。「カブール・ノート」だけ、どうか目を通してください。短時間ですべて読めます。
今回の同時多発テロに対する人々の反応は、アメリカと共にテロリスト攻撃に参加するのが当然だ、という見方から、アメリカがこれまでやってきたことに対する当然の報いだ、というものまで様々ですが、複雑な問題の答を無理に簡略化しようとすると、結局誤った答になってしまうような気がします。
燃えるビルの窓にしがみついて救助を求める人たち、絶望と戦いながら肉親を捜し求める人々の映像は、第一報を聞いた瞬間、浅はかにも「いい気味だ」と思ってしまった私を打ちのめしました。画面の向こうの現実はもっと残酷でしょう。テロの背景にどのような歴史があろうと、無差別大量殺人には変わりありません。テロを認めることはできない。けれども同時に「いかなる情状酌量の余地もない」と断罪する裁判官の前では、彼らが自分が被告であることすら認めないでしょう。そんな裁判官にどんな権威があるでしょう。残念ながら、「さざ波」編集部の態度にはしばしば共産党に通ずる非人間性を感じます。「正しい」だけで空虚な言葉で人の心は動かせません。
アメリカ政府が今回のテロを戦争にしたがっているのは、大規模な報復を正当化したいからだというのはそのとおりだと思います。いかに被害の規模が大きくてもこれはテロです。もし正面切って戦争する軍事力があるなら、犯人たちはそれこそ「正々堂々と」「文句のつけようがない」戦争をしたでしょう。それができない者、すなわち、本来なら屈服するしかないはずの者が、命と引き替えに行なった行為だったからこそ、多くの人はそこに「プロテスト」の要素を見たのです。まともに戦争できる相手なら、アメリカもその怒りを買うようなことはしなかったでしょう。何が彼らの憎悪を生んだのか、結局のところ私は何も知りません。ただ、国連総長や現地の担当者の反対をも押し切ってアメリカが経済制裁をとったため、イラクでは毎月数千人の子どもが餓死したらしい、アフガンでも同様に多くの子どもが凍死するだろう、といったことをカブール・ノートで読んだだけです(ちなみに数日前、毎日新聞のサイトに米軍の攻撃あれば最悪の場合餓死者数百万人という山本氏の推計が紹介されていました)。
ならばテロリストたちはイスラム全体のプロテストを死をもって表した英雄なのか? これも簡単には言えません。原理主義者は同じ思想や宗教を持つ人間にとっても危険な存在でしょう。パレスチナ人が喜ぶ姿は、憎しみがテロリストだけのものでない証に思えますが、先の大戦中の日本人の愚かさを考えよ、と言われれば、なるほどと思うところもあります。今回のテロがアメリカに対する「突然の攻撃」ではなく「長年の攻撃に対する報復」であることは間違いないとしても、実行犯たちの怒りに狂信が混じっていることは忘れてはならないと思います。
テロリストに報復するなら、アメリカの過去も同時に裁かねばならない。両者はワンセットだ。それはそのとおりだと思います。しかしそれもまた我々が簡単に口にできることではないのかもしれません。テロがすでに起こってしまった後で、「お前も悪かったんだから」と言われても素直に受け入れられないのはあたりまえだからです。アメリカの犯罪を糾弾するなら、それを知っていながら沈黙を守ってきた世界の知識人、知ることに怠惰だった人々も、ある意味で自らの無知と怠惰の報いを受けた「素朴なアメリカ一般大衆」と同罪ではないかと思うのです。
テロリストを殲滅するのは軍隊を相手にするよりはるかに難しいということを、アメリカ人は率直に認めているように見えます。けれども実は何も認めていない。テロリスト殲滅の難しさを認めるということは、無理に攻撃しようとすれば一般人も巻き添えにしてしまうと認めること。だからくやしいが手も足も出ない、と認めることのはずです。結局のところ、多くのアメリカ人は、なぜ彼らが正規軍ではなくテロリストを相手にしなければならないのか、なぜアメリカを標的にするテロリストが生まれたのかを理解していない。だから許されないはずの攻撃を自国が計画している矛盾に気づかないのです。
多くの方と同様、私も民衆を巻き込む形の報復には手を貸さず、逆にアメリカの中東政策に対する反省を促すべきだと思います。ただ複雑な問題を複雑な問題として受け止めねばならないのは我々も同じであり、そうでなければアメリカ国民の意識を変えることなど不可能だと思うのです。長くなって申し訳ありません。