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このHPへの感想

2001/9/7 makkie、30代、学習塾講師

 『しんぶん赤旗』紙上で、このHPの存在を知った。共産党の現在の方針に対して憂慮や批判を持っている人々がこんなにも多くいることに、私だけではなかったのだと、少しだけ安堵した。
 ただ、なかには、共産党がご自身の意にそわない見解を表した、行動した、あるいは、今日の情勢の中で共産党が後手を踏んだ、情勢を見誤ったとして、事大主義に陥っている方も見受けられる。「今度は投票しません」とか、「裏切られた」とか。そういうことを表明して一体なんになるのだろうか。
 自らの拠って立つ思想や生き方の確固とした人々、自分のする政治運動、社会運動の質を冷静に判断できる人々は、共産党と一時的な共闘関係を構築した(投票行動だけも含む)としても、あるいは、一時、党の活動に加わったとしても、端からその永続化など信じていないし、ましてや、共産党が自分の意に沿う政党になるなど思いもしないものだ。
 私は、熱心な党員や支持者の共産党を肯定するパセティックな弁にも呆れるが、共産党を批判し、離反する人々の尋常ならざる熱情にも、以前から、ついていけないものを感じている。なぜ、彼らは一様に文春や新潮に寝返り、政治革新を妨害するような手合と組むのか。
 それから、社民党が安保を容認しても、批判する者からここまで詳細には論じられてはいないだろうに、新聞のインタビュー記事を一部訂正しただけで、共産党については鬼の首でもとったかのように論じられる。その熱情はどこからやってくるものなのか。
 社民党の辻元や土井がどれほど愚かな言を弄し愚かな判断を下したとしても、その責任は世の中的には極小に見積もられるのに、共産党員(特に、幹部や議員)には、責任がかつてないほど極大に積み上げられるのは一体どういうことか。
 なぜ、組織原則ばかりがやり玉に上がるのか(私自身はフォーラム形式や根茎状の組織に魅力を感じる。だからといって、民主集中制が遅れた組織原則のように論じられるのは納得できない。それは朝鮮民主主義人民共和国の指導者が世襲ではないかと、嗤う日本の進歩的人士を私に連想させる。共和制の建前があるからこそ世襲が問題化するのである。天皇制を当たり前のように保持している者たちに、共和国の指導者を云々する資格はない。同様に、政党助成金ももらわず、日本の政党の中では近代的な政党の要件を最低限満たしている組織を、要件を満たさない政党を放置し続ける政治風土を温存したまま、批判しても意味がない)。ここには置かれた立場や資格をわきまえないタメにする批判の匂いを感じてしまう。
 このHPを立ち上げた人々の趣意が従来の批判者、離反者の論理(実際には理を凝らした熱情にすぎない)にとどまらず、共産党を批判する論理や苦言を呈する行為自体が、社会の進歩や政治の革新に資するものであって欲しいし、批判や苦言が公開されるこの場が、共産党の人々も含め労働者全体の、社会の進歩や政治の革新についての学びの場であって欲しいと思う。
 現在の共産党を論じるにあたって、その組織が、綱領が、といってもなんにもならない。それはシステムを運営する人の問題だと、私は考えるからだ。上田兄弟や志位の手腕や人柄についてではない。彼らが輩出される構造自体を問題にする必要があるという意味だ。そもそも、私は、体制とその対抗勢力の双方の指導者や幹部が同様の学歴を有していたり、同一の大学出身者で占められていたりすること自体が正しくないことだという認識を持っている。
 日本に巣くっているこの政治構造を改めるのが根本であって、組織や綱領の改変は、しょせん、小手先のことにすぎない。よしんば、立派な組織や綱領に変わったとしても、前述した政治構造に変化がなければ、労働者全体の利益にはならない。
 もちろん、私は共産党の民主集中制がこの政治構造に手を貸していて、本当に優れた人間の登用や労働者階級の真の利害と合致する政策や意見の採用を阻んでいる、という認識を持っている。
 けれども、民主集中制を公然と批判する学者や活動家の主張の中に私ほども、日本のこの政治構造に斬り込んだ見解を聞いたことがない。みな一様に微温に民主主義を主張するわけだが、私には、立派な大学をお出になった方々同士の党内外を巻き込んでの主導権争いにしか見えない場合がほとんどである。

 長々と書いてきたが、私が言いたいのは、共産党の論じられ方は、そろそろクールで理知的で大局を見失わない視点から刷新されるべきだ、という点にある。事大主義と私怨と主導権争いに終始しているように見える泥仕合は、もうけっこう。共産党が従来の泥仕合を挑むなら、批判者はいっそうの賢慮と知恵を働かせ、一歩引いた所から論じる必要があるのではなかろうか。
 このHPには、従来の浅はかな熱情とクールな賢慮が同伴していて、今後、どのような道行きになるか、まだ定かではないように思う。