浩二さん今晩は。反論、読ませて頂きました。
突然ですが、古くて大きなトランポリンをイメージして見て下さい。
外側の大きな枠が見えます。一部は錆びが来ています。しかも、矢鱈目っ鱈、いろいろに錆びています。変な飾りもぶら下がっています。また、塗り上った時さながらのピカピカの部分も見えます。さらにまた、ごく一部ですが、真っ赤に塗られた部分なんかも見えます。枠上に実にさまざまの部分があるのが見えます。
つぎに、真中の張り皮=跳幕をイメージしてください。通常よりずっと狭い幕をイメージして下さい。そして普通、この張り皮にはたくさんの張り紐が張られていますよね。
ハイ、さあ、お見えになりましたでしょうか。イメージ出来ましたでしょうか。
さて、この真中の小さい張り皮を「個の認識」としましょう。外枠は、宇宙ないし世界の諸現象、あるいは、多様な世界観とします(カテゴリーはごっちゃになりますが)。複数の張り紐は、複数の「認識のチャネル」です。トランポリン全体は、「個の認識シミュレータ」です。張り紐が多いほど、「個の認識」は複雑で知的レベルは高いと見なされます(ほんとかどうかは別として、また、知的レベルが何ほどのものかは別として)。
張り紐が1本ないし数本で、しかも、枠のピカピカの部分にのみ結わえられ、張り皮がひらひらと舞い上がっている単純明快な「認識」は、ときに無疑白信(むぎわっしん)の信仰者などと呼ばれる人々のそれです。他の張り紐は、殆ど皆、プッチン状態です。浩二さんの「認識」がそうとは言いませんが。
枠の赤い部分にだけしがみついている張り皮は、自称マルキストなどと粋がる輩のそれです。党員中にもそんな程度の認識をお持ちの方を、まだ、ごくたまに見かけます。党とは別の、所謂、過激派連中にはことに多く見かけます。
けれど、自説を固く信じられる人は、まことに幸いです(はたは困る場合もありますが)。羨ましい限りです(笑い)。
ギャティ ギャティ パーラサンギャティ、ボーディ スヴァーハー
意訳しますと、「往けるものよ、往けるものよ、アチャラ側へ全く往っちまったものよ、思い込みよ、幸あれ」です。これ、ご存知、知的暗示に富んだ「般若心経」巻末の呪言ですが、まことに言い得て妙です。もっとも、「思い込みよ」は、通常、「悟りよ」と訳され、呪言の本意も全く違いますが。が、ともかく本人には幸いです。
末筆ながら、浩二さんに「幸あれ」。ご多幸をお祈り致します。