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靖国問題での平山氏への回答

2001/10/15 一介、30代、学生

 平山氏の質問に以下、簡潔に回答します。(「です、ます調」にしますが、書いているのは「一介」本人に変わりないです。)

「1靖国神社の問題は、成立の経緯を考慮に入れると、存在自体が許し難いものである、と言うことですね?」

 靖国神社を捉える際に、その成立の経緯を考慮に入れるのは当然だと思います。戦争に反対し、平和を求める側の歴史観(将来観)からすれば、靖国神社はそれに対立する存在だと思います。

「2合祀云々ではなく、国家が、国家神道を残し続けていたことが問題であるという認識ですね。」

 合祀云々の前に、平山氏が首相の「私的」参拝は憲法上容認されると前提することに疑問ですし、一宗教法人を国が特別扱いにすることに反対です。合祀に関して国が何かをする(してきた)ことにも大きな疑問を持ちます。これらは憲法上の問題です。

「3靖国は、戦時中に果たした役割と切り離して考えられない、ということであり、首相は、公式・私的を問わず、参拝すること自体が許されないという事ですね?」

 そのとおりだと思っています。戦時中以外からも果たしてきた役割があるでしょうけれど。

「4靖国問題が表面化していない時代の、1979年以前の、社共両党は、靖国神社に首相が公式参拝していることを知りながら放置していたということであり、怠慢であった、ということで理解してよろしいでしょうか?
5大平総理の時代から中曽根総理の時代までは、問題意識が低すぎた、と理解してよろしいでしょうか?」

 そのような批判をしたいのなら、そう理解されればいいでしょう。A級戦犯合祀の発覚と首相の参拝を端緒とするこの問題の表面化が、歴史観から憲法の問題を含めて、広範な議論を巻き起こしてきたことは事実でしょう。そのような議論の過程の中には、今から見た際の不十分さはあり得るでしょう。
 しかし、だから何なのです? 中国が外交問題化したことを強調したいのですか。

「6社会党右派の堤議員の衆議院厚生委員会での、「一般の戦死者と同様に戦犯も扱うべき」、「靖国神社に「さえ」奉られていないことは問題である」という発言は、自己批判を求めるのでしょうか? どの様に総括しているのでしょうか?」

 戦争に反対し平和を求める立場から靖国神社に否定的価値を見出すのならば、そのような見地と上記発言とは整合しないと思います。自己批判云々にどのような価値があるのか私にはわかりません。他党のことなので、私にはどっちでもいいです。私は、一宗教法人が誰を祀ろうが勝手だと思っています。そこに国が関与することは誤りだと思います。

「7現在は社民党に籍を置かれていますが、土井議員の学説である、私的参拝であっても違憲であるという根拠は、社会党員として、上記問題を総括した上で行われているのでしょうから、その見解をお知らせください。」

 直接の当事者であり責任を負う立場の土井党首、および社民党にお聞きください。小林よしのり氏らがこの問題を取り上げて突っついているので、社民党にとっては社会的に説明する責任を負うでしょう。しかし、「私的」参拝が違憲であるとの認識は憲法解釈に求められるのであって、旧社会党右派議員の過去の言動それ自体とは直接は無関係です。

「8討論していると、必ずこの歴史的側面に関する評価は聞かれますので、一介さんなりの回答をお願いします。 」

 私なりに回答できるものと出来ないものがあります。社民党に関わる総括や見解は、直接当事者に聞かなければ、意味がないでしょう。ところで、以上のような回答はだいたい平山氏の予想の範囲でしょうね。
(私が前回指摘した平山氏の立論の難点に何の反応もないのですが、まったく的外れでしたか。)