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一般投稿欄

国連による“軍事制裁”を容認した日本共産党『書簡』を批判する

2001/10/18 島本晩夏、20代、低賃金労働者

 日本共産党は10月11日、不破議長と志位委員長連名による各国政府首脳宛書簡『一部の国による軍事攻撃と戦争拡大の道から、国連を中心にした制裁と“裁き”の道へのきりかえを提案する』(以下『書簡』と表記)を発表した(『しんぶん赤旗』10月12日付)。
 『書簡』は三部構成となっており、(1)米国によるアフガニスタンへの軍事攻撃に「憂慮」を示し、(2)一方で、10月8日に流されたウサマ・ビンラディン(もはや敬称を外し呼び捨てにしていることに注意)自身によるビデオ演説をもって、彼を今回のテロ事件の容疑者と事実上断定し、(3)この事態は国連を主体とした法による裁きで解決を図るべきとして、米英に「性急」な空爆の中止を求めつつも、国連はビンラディンの身柄引き渡しをタリバン(ここでも「政府」や「政権」という呼称は取り払っている)に要求し、それが受け容れられなければ、まず「非軍事的措置」を講じ、さらに必要と認められる場合には「軍事的措置」をとることもありうる、としている。
 だが、このように『書簡』が米英によるアフガン空爆をはっきりと糾弾しないばかりか、“やむを得ぬ”場合の措置として国連による軍事制裁の容認にまで踏み切ったことは、現共産党指導部が日本国憲法を真に内面化できているのかどうかを強く疑わせるのに十分な材料を提供した。なぜならば、“やむを得ぬ”軍事制裁、“致し方のない、必要悪としての”軍事制裁を認める立場とは、すなわち“正当な”武力行使の存在と紛争解決の手段としての武力行使の“有効性”とを認める立場に他ならず、それは「国際紛争解決の手段として永久に武力を放棄する」憲法9条の理念とは全く相容れないものだからである。
 そこで、もう少し詳しくこの『書簡』を検討してみよう。
 第一に、そもそも『書簡』が無条件の前提として疑わない国連の“政治的中立性”自体が相当に怪しいシロモノである。冷戦終結以降、国連が常任理事国を中心とした覇権主義的大国のための利害調整機関に堕してしまっていることは、すでに第三世界の常識である(湾岸戦争での多国籍軍による劣化ウラン弾無差別爆撃の容認は、そうした国連の体質を如実に示す最初の事例であった)。また、先日の妙にタイミングのいいアナン事務総長(ガーナ出身)のノーベル平和賞受賞にしても、この機会を利用して偏向した国連の実態を糊塗したいという大国の露骨な意図が見え隠れしている。
 次に、たとえ百歩譲って国連の中立性を認めたとしても、もし国連が直接武力行使に首を突っ込めば、必然的に国連自身が紛争当事者となってしまい、それまで建前上かろうじて有していた第三者としての紛争調停機能を自ら失うハメに陥る。だいたい軍事介入の“適切な”頃合いを第三者ならぬ参戦主体としての国連自身が決めることになるわけだから、介入のタイミングを“客観的に”見極められるはずもなく、またぞろ大国本位で恣意的な決断が下されることは避けられない(敵役がとても呑めない無理難題を期限を切って勝手に吹っかけ、「時間切れ約束不履行」の咎を嬉々としてなすり付け袋叩きにするあの手口!)。これは、『書簡』のいう「国連による軍事的措置」なるものが本来的に有する欠陥なのである。
 第三に、先述のとおりこれが最も重大な問題なのだが、いったん国連による“清く正しい”武力行使とその“有効性”とを認めてしまったならば、「そのように正統性の保証された真っ当な国際社会への貢献になぜ日本は参加しようとしないのか、できないのか」という小沢一郎に代表される右派イデオローグからの伝統的攻撃(一国平和主議論=日本人平和ボケ論)に対し、論理的に反駁することが不可能となる。その場合、苦しまぎれに「我国には憲法9条があるからだ」と答えるしかなかろうが、それこそ待ってましたとばかりに「だったら正当なる国際貢献への参加を妨げるそんな憲法など代えたらいい」と切り返されるのがオチである。
 したがって、冷戦終結以降国際紛争が起こるたびに看板を変えて繰り返される支配層によるこうした9条攻撃(湾岸戦争での「人的国際貢献論」に始まりユーゴ紛争での「人道的軍事介入論」を経て今回の「テロ撲滅のための国際的責任論」に至るまで)に対して積極的な反論を加えるためには、「たとえ行使主体が国連だろうと、いかなる武力も紛争を解決しないどころか、事態をますます複雑化させこじれさせるだけだ。もとより“適切な”武力介入などあり得ない」という歴史的教訓を、史実に基づき実証的に訴えてゆくほかない。「平和憲法があるから」ではなく「武力では何一つ解決できないから」こそ自衛隊派兵に反対なのだ、ということを明晰に秩序立てて語らなければならない。
 現実に今、世界の紛争諸地域においては、NGOを中心とした非国連組織による武力を用いない代替的和平テクノロジーが徐々に成果を挙げつつある(例えば中南米や旧ユーゴ諸国における国際平和旅団〔PBI〕の精力的な活動など。詳しくは水島朝穂氏の著書『武力なき平和―日本国憲法の構想力』〔岩波書店〕やウェブサイトhttp://www.asaho.comを参照のこと)。そうした武力に頼らない、プロフェッショナルな交渉技術を縦横に駆使した和平構築の方法を具体的に提示することによって初めて、武力の永久放棄を謳った憲法9条の説得力がより増してゆくだろう。蓋し、和平とは本来、対話を通じて一歩一歩構築するほか道のない、気の遠くなるほどの根気と時間とを要する作業なのである。
 繰り返すが“良き”武力行使、“よりマシな”武力行使などない。ある特定の局面において軍事力の“妥当性”を認める論理と、いかなる局面においてもその妥当性を一切認めない理念(9条理念=武力の永久放棄)とは決して両立し得ない。前者の論理の容認とは、それに付随して多数発生する民間人の犠牲の容認をも意味することを共産党指導部は肝に銘じなければならない(だが、それが第三世界に生きる無辜の人民の生命と生活に対する想像力の決定的欠如でなくていったい何であろうか! おそらく『書簡』のイメージする「軍事的措置」とは、陸戦にまで至らない“クリーンな”戦争、要するに“ごく限定的な”空爆や洋上からのピンポイント爆撃のことなのだろうが、それは結局のところ米国中心の武力行使とならざるを得ないばかりか、アフガン空爆が連日教えてくれるように、“誤爆が例外”ではなく“命中こそが例外”という恐るべき日常を引き起こすことになろう)。
 以上縷々論じてきたとおり、この『書簡』によって現共産党指導部は自らの憲法理解の底の浅さをあられもなく露呈した。こうした党指導部の小変節(昨秋党大会での「自衛隊活用論」を含めて、なぜそうなったのかについては創刊以来の『さざ波通信』各号で詳細に批判検討されてきたとおりである)は、今後護憲運動諸勢力が9条理念の普遍化作業を進めてゆくうえで、その隊列を大きく乱し、足を引っ張り、計り知れない打撃を与えることになるだろう。
 しかしながら、だからこそ、こうした腰砕けの党指導部と末端の一般党員とを機械的に同一視することだけは厳に戒めねばならない。おそらく大多数の一般党員は、党指導部の恣意的な憲法解釈に鋭く自覚的とはいえないまでも、各々そのイノセントな平和主義的志向についてはなお堅固に保持し続けているだろう。それゆえ、非共産党系護憲勢力には、一般党員と党指導部とを味噌クソ一緒に混同して「第五列」の烙印を捺し共闘構想からパージしたりせず、少なくとも彼ら草の根の党員とは大同で一致し連携してゆく優れて理性的な努力が求められる。もちろん一般共産党員の側に逆の立場から同じ努力がより強く求められているのは自明である(右傾化した党指導部の見解にいつまでも鈍感なままでいると、それに合わせて自らもなし崩しに右傾化してしまい、気付いた時には他の真面目な護憲勢力との間にもはや埋め難い溝が生じていた、ということになりかねない)。
 反省なきバカな主流マスコミによる小泉「構造改革」礼賛の大洪水に翻弄され、護憲勢力全体の絶対数がかつてなく切り縮められている今だからこそ、官僚化し退廃した左翼諸政党指導部の迷走(この調子では次期通常国会に上程が予想される有事法制案にまともに反対できるかどうかも疑わしい)にいちいち惑わされることのない下部レヴェルからの強靭な連帯が必要なのである。(了)