私は現代日本を知るためには、マルクス、エンゲルス全集、レーニン全集、国民文庫の村田陽一翻訳部分が役に立つと思います。また、平凡社ライブラリーの加藤周一セレクション、筑摩文庫の日本文学史序説が必読だと思います。
両者に共通なのは客観的で事実の尊重が強いと言うこと、感傷的でないことです。一見した違いは、村田氏が集団主義でドグマ的であること、加藤氏が個人主義で自由であることです。深いところではその違いはなく、個人主義を通じた社会主義と言うことかもしれません。
浩二さんのお手紙で驚いたのは、加藤さんが正反対に理解されていることです。彼は批林批孔運動を肯定してるのではなく、なぜああいうことが起きたかを知りたいと言うことです。否定する前にまず知ること。林と孔がなぜ結びつくのか。加藤さんは漢字文化圏の基礎として論語を推奨しているので、安易な孔子批判に同調するはずがありません。毛と林がなぜああなったのか、サンケイの毛沢東秘録もまあおもしろいですが、松本重治の「上海時代」の蒋介石批評に比べると落ちます。
加藤さんが母親大会で政治家・公務員の靖国参拝の制限、参拝による国益の毀損を述べていることは議論があることでしょう。教科諸問題では、憲法の規定から検閲に他ならない教科書検定の廃止を、加藤さんは前から主張しています。そして、比較文化論として欧米は意見の違いを前提とするが、日本は意見の同じことを前提にしているとして、憲法の規定はあっても日本で村八分的に自由が制限されやすいと批判しています。
ただ言論抑圧を主張する軍国主義やナチズムを制限すべきかと言うことも議論があり得るでしょう。戦後より戦前の方がいいという主張は、自由抑圧であって自由主義ではないでしょう。私の意見として言論は自由であるべきだが、公教育などは戦争を否定した憲法に則って行われるべきだと思います。