私は、就職意欲を無くしている人間です。それには、いろいろな経過が有ります。私は競争を強いられる事にはついていけません。私には、背伸びをした仕事が出来る自信が有りません。
競争社会の日本、私のような仕事も出来ない人間の発言権さへ否定されています。それは、校内いじめに留まらず、大人社会でのいじめが横行していると言う事。背伸びをした仕事は、上手行くどころか、とんでもない間違いを起こすことになります。
社会を見て下さい。過密した車社会、そこを速度制限を無視して走る運送関係の車。私は、大型免許は取った物の怖さが先に立ち出来ません。速度だけではなく、重量も、制限以内の積載では仕事は有りません。
私は、秩父に住み、一人では出来ませんが、幾つかの伝統芸能も継承しています。それは、神社、観光の関係も有り、平日も休みたい事も有りますが、仕事不足と言いながら、仕事に就けば自由に休ませてもらえません。
私は現在、自分で何か稼げる事を考えていますが、法的な難しい問題が有り、試しに始めることも出来ません。韓国などは、フリーマーケットの様な商行為は自由に出来るそうですが、自由と言われる日本、商行為を無断で自由に行なう事が出来ません。それより、自由な競争主義は、弱肉強食の社会。個人商店は、閉鎖の一途、会社でも、中小企業は、大企業に押しつぶされ、多くの労働者を抱えていた中小企業が無くなる事が、失業増大に繋がっています。
中小企業で、多種多様な仕事をしていた人は、何処にでも適合するでしょう。長年、機械的な一部分的な仕事をしかやらせて貰えなかった者は、高齢になればなるほど、難しいのです。
多くの人は、会社中心の考えをしていると思いますが、私は、自分の生活の為に会社は必要と思っています。自分の生活環境の良くならない会社を希望していません。
現状を見て下さい。みんな会社の為、自分たちの生活を犠牲に尽くしてきた者がリストラ名目で解雇では、労使対等では有りません。残業や休日出勤は、自分たちの生活の犠牲の一つです。賃金の安い企業では、そこまでやっても生活は厳しいのです。
賃金に差があっても、人間の出来る仕事の差は、賃金格差ほど無いと私は思います。社会は、結果を出さなければ、努力が足らないと非難をします。人間の仕事能力に賃金格差ほどの差は無いと思いますが、個人差は有るはずです。能力不足の者は、神経をも余計に使いながらも結果を出すことが出来ません。
この競争主義社会は、能力のある者が、優先的に職業選択の自由の権利を活かして居ますが、能力の低い者は、職業の選択の自由どころが、勤労の義務さへ果たせません。それは、生きる事さへ出来ません。
投稿の中で、「収入が0でも生きられる」との発言が有りましたが、それは犯罪を犯すか、野良犬や野良猫のような生活をしろと、言っているように受け取れます。もしそうだとすれば、非人間的な暴言だと思います。
私に仕事の能力が有れば、とっくに自分で何かを始めています。会社に勤めると言う事は、自分の利益以上の仕事を提供しなければ成らないはずです。自分だけの仕事なら、自分の利益だけで良いわけです。
「大は小を兼ねても、小は大を兼ねません」小の足を引っ張らないで欲しいものです。高級の夢を見るより、低級でも、文化的な生活を望みたい、これが私の考えです。
それから、秩父の状況がどんな物か、よく見て欲しいです。仕事が欲しいが為に、会社が言う通りに、遠くに通ったり、住む場所を変えたりはしたくは有りません。私は一時しのぎでは仕事をしたくはありませんし、自信は有りません。
我が儘と言う意見も有りましょう。だからで、成り行きに合わせたのでは、余計に進展は有りません。仕事能力の低い人間でも出来る仕事場が有ったら教えて下さい。いじめの有る会社、酒を無理矢理、強いる会社は嫌です。