特定事業は、創業期の供給が需要に追いつかない時代。同系列の新製品を生み出しつつ需要と供給をつり合わせている時代(新製品は供給力の極度の発展を抑える)。新製品を生み出しつつも供給力の発展に需要が追いつかない時代(後退期)というようにながれていくので、会社を維持していく為には、常に新しい事業を用意しなければならないと言われている。
競争社会の激烈化は、必然的にこのサイクルを早め、その結果、大量の失業者を生み出す事になる。最近の失業者の増大はバブルの後遺症もあるので過剰にふくらんでいると思うが、このバブルの後遺症から抜け出して2~3%の安定成長に入っても、競争社会の激烈化はそのままなので、大量失業は緩和されることはあっても、基本的には残っていくだろうと思われる。
事業転換のサイクルは、早まっても働く人間がそんなに早く事業転換に対応できるとも思えないし、新しい事業への転換(しかも、実質的に意味のあるのは従来の消費をつぶす形ではなく新しい消費を生み出すもの)も今までに比較にならないくらい大量に必要になってくるからである。
そのときに、新自由主義者などは、安定成長が確保されたことで競争社会だからしょうがないとか仕事を選んでいる(求人は十分にあるといっているが、その多くは派遣業など正社員の雇用をつぶすものとか、より条件の悪い雇用で従来の雇用層をつぶすものとかも多い-例えば、会社内で人が足りなくとも、その雇用が確保されることでその会社の競争力が上がり、他の会社の競争力を下げ相対的に雇用を圧迫する場合もある。こいいう形の求人はある意味輸出競争力を増すことで求人人口を増やすことはあるが、現在のように日本の輸出競争力がもともと強い状態においては、新たな雇用を生み出すのは難しい部類に入る)から就職がないとか言い出すのではないかと危惧します。
さらに、大量の失業者(流動する労働力という言い方もできる)が新事業の人材確保を容易にし、起業活動を活発にし競争力を上げるなどと言い出しかねない。
競争力のある人間が過剰消費・過剰生産・過剰労働を必然的にしなければならないという社会にするのではなく、労働時間を短縮して、別な形の競争で創造力の発展を保証するような社会を作っていかなければならないのではないか!
さらに、結局、必要な余暇時間を作っていかないと、文化の発展の面でも創造力の発展の面でも立ち遅れていく事になりそうな気がする。
とにかく、労働時間をどうにかしないと立ち直れないような気がする。