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ものごとを社会的矛盾としてとらえること

2001/12/1 川上 慎一、50代

 2001/11/25と2001/11/29にまきさんから2本の投稿がありました。中には事実としては受け入れにくいものがあります。たとえば健康保険・厚生年金と国保、国民年金が金額的には大して変わらない、などです。保険料(保険税)のことを指しているのでしょうが、具体的に調べたわけではありませんが、おそらく保険料自体も国保は健保に比べて高いはずです。また、給付を比較しないで「金額的にはそんなに変わりません」ということはできません。健康保険には傷病手当金などの現金給付があります。年金にしても厚生年金も決して十分な水準とはいえませんが、国民年金はさらに水準が低いはずです。いずれにしても、これらのことについて深入りするつもりはありません。
 まきさんの考え方の中にはどうしても気になって仕方がない面があります。「働かざる者食うべからずの意味 」(2001/11/29)の中に「私自身これらの過度の労働により心身とも体調を崩し仕事が出来なくなり現在通院中です。もうすぐ退社せざる得ません、社会が悪いとは全く思いません。」とあります。また、まきさんはその1つ前の投稿で「日曜、祭日はおろか盆正月この7年間一度も休んだ事はありません。労働時間一日平均14時間、残業は一切つきません。」と書いています。
 29日の投稿は後半が文字化けのため、全体の趣旨を汲み取れないのかもしれないことをお断りしておきます。
 「日曜、祭日はおろか盆正月この7年間一度も休んだ事はない」とか「労働時間一日平均14時間」という労働実態は、誰が見ても異常であるし、それが当然のことだとは誰も思わないでしょう。そして、その結果、「過度の労働により心身とも体調を崩し仕事が出来なくなり現在通院中」とのことです。このようになったのは、まきさんの個人的な問題でしょうか。このような労働を長期にわたって続ければ体を壊すのはむしろ当たり前でしょう。
 あなたは、「金がなくても生きていける。自殺することはない」として、「命の尊さ」を説きます。しかし、あなた自身の健康がむしばまれ、結果的に、寿命を縮めることになっていることに気づきませんか。
 生きていくために仕事を見つけなければなりません。そのためには、まずは何よりも個人がその努力をしなければならないでしょう。しかし、その個人的努力には限界があって、それだけではどうしても解決できない問題が残ります。たとえば、「求職数1に対して求人数が0.5」が「求職数0.5に対して求人数が0」になったところで、国民に仕事を保証することができない社会であることに変わりはありません。賃金や労働時間の問題を労働者全体の問題としてとらえることが労働運動の原点です。さらに、この労働運動だけではどうしても解決できない問題、つまり労働者階級が国家権力を握らなければ解決されない問題が残ります。これが資本主義社会の革命運動の原点だと思います。
 「自分が不幸なのは全て自分の努力不足は棚に上げておいて、国が悪い、いい加減にして下さい。」と言いますが、「酒の強要」なども職場の上下関係、人間関係がからむ問題であり、広い意味で社会的問題としてとらえる方が合理的なことが多いのです。たとえば、同窓会などで酒を強要されれば、次からは出席しなければいいのですが、職場の場合には出勤しないわけにはいきません。特に、部下から「強要」されることはまずありませんから、職場における上下関係の問題ととらえる方が合理的でしょう。セクハラなどもおそらくは社会問題化する件数よりもはるかに多いのでしょう。こんなときには勇気を持って拒否すべきであることはいうまでもありませんし、そのことによって、不利益な扱いを受ければ闘う以外にはありません。そのためには、労働者の団結が不可欠です。その意味でも、これらの問題も社会的問題としてとらえることの方が妥当ではないでしょうか。
 現在の失業の問題は、個人的に努力することによって解決することの方が少ないのであって、「仕事がない」ということを個人的問題に還元してしまうことはできないと思います。どんな人がどんな職業にでもつけるわけではありませんから、個人の特性を生かした職業につくことができるようにすることは社会的な努力が求められるべき問題であって、個人的問題に還元することはできません。