どうも意味の程度とイメージが違ってとらえられたようですが。
仕事を選ぶ権利といったのは、やりたいことや条件のあうところをさがすというのとはちょっとちがう意味なのですが。(私は自分にあった仕事という表現を使ったのですが)
やりたいことや条件のあうところなど今どき話題にはしませんよ。むろんそれは理想でよいに決まっているので、話題としてなりたつものではありません。
悪い条件のなかでも程度の少しでもよいところ、やりたくないところでも、少しましなところという程度でとらえてください。少しでもましなものを選んでいくという努力をしたいということの程度です。
また、それでもないことがあるだろうから、一時的には無理な仕事をしなければならない場合もあるであろうとおもっています。
この一時的というのは数年のこともあろうし、もっと長い場合もあるかもしれません。
しかし、あくまで改善をめざして仕事をえらぶことを忘れたくないと思うことです。思い切って仕事に迎合するほうが精神的に楽なので、あきらめきって無理を重ねる場合がありますが、それでは不利だということです。あくまで粘り強く仕事を選ぶ機会を探す努力をしたい、忘れたくないということです。それでもない場合もむろんありますが、そういう精神を持ち続けるということです。時代が変わってくるということもありますし。
したがって私があまりよくないとおもっているのは、仕事に迎合して無理をしている人が、こんなに私は無理をして働いているのだから、失業者はなまけているのだろうという論調です。
一生懸命に働いているので、人を非難したくなるのは当然わかりますが、あくまで少しでもましな仕事をもともめることは大切でそれを非難するという傾向は労働者としてよくないと思うからです。
労働条件は改善されるべきであり、自分にあった仕事(やりたい仕事、条件のあう仕事とはイメージが少し違う。あえていえば、自分でも長く続けられる仕事か。)につくことは大切であるからです。
文章なのでなかなかイメージをうまく書けませんが。いずれにしても無理な仕事は体や精神を消耗し、良い結果は得られないと思います。