12月2日付け投稿欄に、海上保安庁法改正案賛成の挙にでた日本共産党指導部批判に関して、「肝心の不審船に対して、どう対処すべき」かとの問題提起が出されました。
「不審船」なるものがはるばるニッポンへやってきたのはなぜかを考えてみましょう。不審船が不審な行動をとっていたのは、もとより不審ですから詳らかではありませんが、わがニッポンに彼らにとって不審なものが存在していたからだろうと見るのが適当でしょう。
そのように不審ものとは、米軍基地であり自衛隊基地でありまたその通信・「防衛能力」でありましょうか。不審なクニが、ニッポン市民を不審と見なして、不審船を派遣し不審な行動をとって探りに来たとはとても思えません。丸腰のニッポン市民がなぜ慌てふためいて、「刃傷沙汰」に及ばなければならないのか、それこそ不審ではないでしょうか。
これまでも、従来の法規内でなんとか対処し、重大な紛争には及ばなかったのですから、ともかく、危害射撃などという物騒な挙に出ずに、速やかにお引取り願うだけで十分ではないでしょうか。それとも、航行不能な打撃を与えて、意気揚揚船内に乗り込み、キリキリ絞り上げるのがベストで「責任」ある態度だというのでしょうか。ブッシュ保安官の手下としては似つかわしい役回りではありますが、紛争を深刻にさせるだけであって、まるで「有効」ではありません。
一切の武力紛争を回避し、武力による威嚇および武力の行使は行わないという日本国憲法の不戦の誓いを弊履のごとく捨てるわけにはいかないでしょう。
日本共産党の指導部諸侯は「有効で具体的な代案」を提示できず、おめおめと「軍門」に降り、参戦法とセットになったこの海上保安庁法改正案に諸手を挙げて賛成したというわけです。
こうした問題に対して「有効」な手立てを急ぐ<排除の気風>こそ、帝国主義化したわがニッポン社会の現状を示す指標であり、その帝国主義化にふさわしい日本共産党の無残な変容を示す指標になっていることに注意を払うべきだと思われます。
のっぺらぼうの「国民」なるものを措定して、その「説得」に「有効」であろうとして汲々たる日本共産党指導部諸侯を、革命を目指す「非国民」たるわれわれが許しておいていいとは思えません。
むしろ、今回の日本共産党指導部の重大な決断は、市民運動に参加する少なくない人々から「不審」の眼で見られているということこそ愁うべき現況といわねばなりません。