日本共産党指導部と国会議員団は、皇族の誕生への「国民あげて」の「賀詞」なるものの国会決議に賛成した。
「国民ひとしく」だの「あげて」だの、一体どうやったらそんなことがわかるのか? 現に匹夫は反対している。こんなイカサマ的決議に賛成するとは、一体どういうつもりなのか? あるいは、賛成しないものには、戦前の特高警察のごとく、今度は党指導部・国会議員団が、「非国民」とでもいうのだろうか?
戦前、河上肇が、この国は「天賦人権」ではなく「国賦人権」であり、「民主国」ならぬ「国主国」であると述べた。それを見抜いた河上は、「主権在民」「民主国」の実現を目指し、日本共産党に入って非合法活動に従事した。その同じ日本共産党が21世紀の今、一枚岩たる「国主国」とそのなかの有機分子としての、<ひとしなみの国民>なるべきことをを強要する側にまわったのである!
一部の党員には、たんに儀礼にすぎないからなどといって、この問題を軽視するむきもあるようだが、全くナンセンスである。国家の遂行する儀礼こそは、まさしく国家権力のありよう(<この国の形>を、人々の五感に訴える形で示すところの「象徴」的な権威行為に他ならない。多くの人々は、共産党指導部のこの自覚的な天皇制に対する投降行為そのものによって、それ以外にはほとんど選択肢がないと思いこまされ、まさにそのことの結果として、王権の一員への「喜び」が「自然」であるのだと、思いこまされることになるのである。共産党指導部が手を貸したのは、こういう国家行為なのである。
いいだろう。日本共産党指導部の態度はもう十分にわかった。だが、「さざ波」に集うわれわれは、もうそろそろ新たなステップに入る時期ではないのだろうか。もう情勢は、そのための準備を求めているように思われてならない。