日本共産党内部には、「言論の自由がない」、その裏返しとして「皆同じことを言う」という問題が指摘されてきた。この問題とセットで行なわれる批判が「査問」である。ただし、「査問」のようにトップのレベルで行なわれる「粛清」、あるいはヒエラルキー間で遂行される「粛清」にも問題はあるが、末端党員がいつも粛清されているわけではない。にもかかわらず、末端党員のレベルにおいても、「同じことばかり言う」のはなぜか? 考えてみたいと思う。
1 「同じことばかり言う」のは共産党員だけではないという問題
普通の学生に「財政構造改革についてどう思いますか?」と質問しても、帰ってくる答えは、テレビの評論家か新聞の影響を受けた回答になるはずである。それ以外の独自な判断を要求することは難しい。つまり、「同じことを言う」のは、「同じ新聞しか読まない」「同じ本しか読まない」というレベルで考えるならば、何も特別なことはないのである。
2 「同じことばかり言う」中身の問題
とはいうものの、民青同盟員や共産党員のいう「同じことの」中身は普通の学生とは全く異なる。「レーニンとスターリンは違う」「社会の発展法則に自分の人生を重ね合わせる」「科学的社会主義は人類の英知を結集したもの」等等、である。もちろん、彼らは資本論を読んでいるわけでも、ロシアの歴史について勉強したわけでもない。ただ、党内「教育」によって学んだことを繰り返しているだけである。普通の学生が全く考えないようなことをただ繰り返すだけなので、一種異様に見えるのである。ただし、このレベルならば、学ぶ対象が異なるだけであり、その「精神構造」は普通の学生と変わりはない。
3 「同じことを言う」だけではすまない問題
組織というのは、何らかの目的があり、何らかの基準に沿って団結している。共産党にとっては、綱領であり規約である。いかなる個々の具体的情勢分析に際しても、絶えず綱領が基準となる。しかし、「私と彼は同じ組織にいる」ということを確認する手段は何だろうか? それは、「言語」=記号である。「科学的社会主義」「共産主義」「アメリカ帝国主義」等々、同じ用語を使用することによってしか確認できないのである。同じことをいうのは、一つには団結力を高めることが目的なのである。同時に、団結は排除とセットでなければならない。異質なものを排除することによって、団結力は純化されうる。そして、この排除の論理は、「粛清」がなくとも貫徹されうる。そうでなければ、「粛清」がシステム化することなどありえないのである。
ただし、このレベルの「粛清」であれば、「小学生のいじめ」とさほど変わらない。気に入らない奴を排除し、「いじめ」を通じて仲間意識を高めているだけなのである。
4 科学的社会主義の特殊性
科学的社会主義は、①社会の発展法則を解明し、②そこで得られた結論を普及するという側面がある。①は、剰余価値学説と史的唯物論を基礎とし、②は運動論に関わる問題である。①は、基本的には東京大学などを卒業したエリートによって担われる。②は、一般の労働者によって担われる。日本共産党内部の①と②の分裂構造は、資本主義の「精神労働と肉体労働」の分裂を反映したものであるともいえるが、もう一方の側面として、「粛清」のメカニズムと大きく関わっている面がある。②は、基本的に「自分で考える条件」が①に比べて劣る(読書時間など)だけではなく、「自分で考えること」が許されないのである。なぜなら、②の役割は、「普及」することにあり、自分で独自の意見を考えたとしてもそれが採用されることはまずなく、①から②に対しては、実践を通じて「経験」という名のデータを提供することしか要求されていないからである。
自然科学も含めて実験データを「普及」するなどいう運動は、ほとんどない(公害裁判などで汚染値を広げるなどいうことはあるにしても)。逆に、企業の営業や宗教のような場合、「普及」は要求されるが、その内容は「科学」ではなく、特定の目的に沿ったイデオロギーなのである。そういった意味で、科学的社会主義とは、特殊な科学なのである。
5 認識の発展過程が最も重要である
政治運動には、それなりのスピードが要求される。いわゆる、「情勢が迫っている」というやつである。真理は上から(①から)降りてくる。そこでは、「思考錯誤」し、様々な議論を通じて、真理に到達していくというプロセスは軽視される。「真理を覚える」のである。
もちろん、共産党の支部では情勢討議など議論することは許される。ただし、議論するだけである。結論ははじめから決まっている。ここでの「議論」は、情勢認識を深めるためのものではなく、「実践」に行動を移すための「意思統一」に近い。人間にとって考えるという基本的な行為が、許されないのである。
科学的社会主義とはいうものの、実際には「科学」的に分析を行なうのは「頭のいい人たち」だけであり、大多数の党員は「実践」するだけなのである。
6 なぜ末端党員は「同じことしか言わない」のか
とはいえ、②を担うひとたちは、このようなことを意識しているわけではない。自分で出した結論は、自分で考えたものだと思っているはずである。①から降りてきた「真理」と自分の意見が一致したとき、実践は至上命題となる。ここまでくれば、もはや「真理」と異なる意見を持つものを許すはずがない。党員同士(=同志)の罵声が飛び交う。「誰の立場に立っているのか」「きっきっき、君は科学的社会主義の原則から逸脱しているぞ」などと、たいして理解しているわけでもないのに偉そうなことを平気で言ってのける。
党員一人一人が、単に実践だけを担っているのではなく、科学も同時に担い、互いに「認識を深めていくプロセス」を認めることである。「真理を覚える」党員をみたら、「その意味は何ですか」「どういう根拠に基づいていますか」と徹底的に質問することである。そのこと抜きに、党の再生はありえない。