ゆめさんへ、みなさんへ
ゆめさんの議論に乗っかる形で、意見を述べます。
政治的な掛け声として、「大きな政府」とか「小さな政府」という言葉が巷で頻出します。だけど、私たちが望む政策(もしくは、体制、政府、政権)は、この言葉によって縛られ、矮小化されていると思います。
人権を尊重し、政治や社会の民主的な変革を志向する人々への攻撃として使われることはあっても、これらの人々が「私たちは大きな政府を志向します」と公言することはありません。だって、こんなことを言ったら、「お前は、昔のソ連や中国を懐かしがっている」と冷笑されるのがオチだし、レベルの低い議論に足を突っ込まねばならなくなるからです。
つまり、これは敵の土俵(体制選択論)で議論するための言葉ではあっても、その実、中身のない言葉なのではないでしょうか。
しかしながら、「大きな政府」、「小さな政府」という言葉が巧妙なのは、中身のない言葉にもかかわらず、世論をミスリードする点です。
いろいろな社会的施策やプロジェクトの運営を自治体や国が担うのか、企業が担うのか、非営利組織が担うのか、はたまた、これらの中間的性格を備えた団体が担うのかは、国や自治体の歴史・文化の背景によって、その社会に属する住民の民主主義や市民的自由・権利の成熟の度合いによって、施策やプロジェクトの具体的な中身によって、異なるのではないでしょうか。
それを一律に企業が是とか、官なら大丈夫とか、非営利組織だから安心とはならないはずです。
つまり、「大きな政府」とか「小さな政府」という言葉は、それぞれの社会で、個別の施策やプロジェクトにとって何が(誰が)適合的な運営主体のあり方かを、きちんと考える、あるいは、議論することを阻んでいるように思うので す。実際、日本はその典型ではないでしょうか。
だから、福祉国家というようなグランドデザインを、政府が大きいとか小さいとかという範疇で議論する必要はないように思います(大きい小さいではまともな結論はでないとも思います)。
このHPで最近論じられているように、ホームレスの問題や失業者の雇用対策の問題を、具体的事例から、現場の要求から議論していくことこそ、大事だと思います。また、そのためには社会に政治にどのように働きかけるべきかも考える必要があります。
一方で、私の考えでは、政治は、国家構想であるより以前に、そして、既存の政治システムや法体系の中で許容される施策やプロジェクトを実現していくことである以前に、人間の自由と人権を拡張していく創造的な社会運動であるべきだと思います。
だから、ホームレス基本法を構想したり、その制定について考えることはとても大事なことだし、それ自体が貴重な実践でもあろうかと思います(もちろん、今日明日の彼・彼女らの生活の糧を得る策と直接結びつかないとは思いまが)。
これからもみなさんの議論に注目していきます。