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一般投稿欄

龍の騎士さんへ(『科学的社会主義を学ぶ』を批判する・2)

2002/1/23 J.D.

 富士山さんに対する回答を読ませてもらいました。私が期待していたレベルとは違いました(因みに、私が期待していたのは、ヘーゲルの絶対精神を「熱病やみの妄想」とあっさり切り捨てた秀才エンゲルスを批判するレベルの内容でした)が、私とまったく同じ見解で嬉しく思っています。私が富士山さんに回答しても同じ内容になったと思いますが、あそこまでうまく纏められる自信はありません。ただ、「レーニンはフォイエルバッハに引きずられて」という記述が少し引っかかりましたが、多分私の勉強不足のせいでしょう。
 龍の騎士さんに刺激されて、ずっと前に書き始めて中途半端に終わっていた不破哲三批判を投稿する気になりました。体系的に批判しようとしたうちの一部分です。あまりまとまっていませんし、ちょっと「崩れ」を来しているかもしれません。が、読んでもらえれば幸いです。

 前回は『科学的社会主義を学ぶ』を批判するといいながらも、見方によっては些末な論点を扱った。今回はいわゆる「世界観」に関するテーマを扱い、不破批判を試みる。不破の唯物論理解、弁証法理解などは、本来なら取りあげるのもばからしいほどの低レベルである。はっきりいうなら、不破からのみ弁証法を学ぶならば、弁証法=詭弁ということが理解できるだけであって、これでは敵を助けているだけである。それにもかかわらず、読者からは絶賛の声が後を絶たない。恥ずかしいからやめてくれといっているだけではなんの解決にもならない。党内への影響を考えると、見て見ぬ振りはできない。

 不破は、質問に答える形で、エンゲルスのいう弁証法の法則について、次の三つを挙げている。すなわち、「量から質への転化の法則、対立物の統一の法則、及び否定の否定の法則」の三つである。しかしこれは、事実的に誤りである。エンゲルスは「対立物の統一の法則」などとは一言もいっていない。エンゲルスは、「対立物の相互浸透の法則」といったのである。
 なぜ不破はこのような事実的な間違いを犯しているのか。これに答えるためにはマルクス主義の歴史をさかのぼる必要がある。エンゲルスは『自然の弁証法』の中で、弁証法の三法則として、「量から質への、またその逆の法則。対立物の相互浸透の法則。否定の否定の法則」を挙げた。後レーニンは、これとはまったく独立にノートの中に、弁証法は「対立物の統一に関する学問」であるとメモを残した。
 ここで「まったく独立に」というのは、レーニンはエンゲルスの『自然の弁証法』を読んでいないからである。『自然の弁証法』はレーニンの死後出版されたのである。
 さらにスターリン時代の哲学者は、レーニンのノートの中に「対立物の闘争は、……絶対的である」と述べられている(このテーゼはレーニンの一番重大な誤りの一つである)ことから、先の「対立物の統一」という言葉とをくっつけて、「対立物の統一と闘争」なる「法則」をでっち上げた。これが言葉の上で先のエンゲルスの「対立物の相互浸透」と似ていることから、「哲学のレーニン的段階」として「対立物の統一と闘争」が「対立物の相互浸透」に取って代わることになったのである。
 因みにレーニン自身は、「対立物の統一と闘争」なる言葉は使っていないはずである。レーニン全集の索引にはこの言葉は登場するが、そのページを見てもその言葉自体は見あたらない。
 この「哲学のレーニン的段階」は世界各国に普及したため、日本の哲学者が書いた弁証法やマルクス主義の解説書には、「対立物の統一と闘争」などという言葉が登場している。不破もこの影響を受けているはずだが、さすがにレーニンを読み込んでいるだけあって、「対立物の統一と闘争」がレーニンの言葉ではないことは知っているらしい。そこでレーニン本人の言葉である「対立物の統一」という言葉を安易に使っているであろうと思われる。
 しかし、「対立物の相互浸透」と「対立物の統一」というのは、外延的にも内包的にも全く異なる概念である。不破は質問者に答えて、毛沢東が弁証法の基本法則として「矛盾」の法則だけでよいと主張したのは誤りだと批判しているが、どちらかといえばこの毛沢東の主張は正しい。レーニンもいっているように、弁証法は「物事の本質そのものにおける矛盾の研究」を中心に置くものだからである。つまり、弁証法一般論としては、毛沢東の主張は正しいのである。
 ところが毛沢東は、弁証法に関して明白な誤りを犯している。それは、「同一性」と「統一性」と「相互浸透」などを同じ意味であると解釈している点である。毛沢東を不当に批判している不破は、実は毛沢東と同じ誤りを犯しているのである。
 それでは「対立物の相互浸透」と「対立物の統一」とはどう違うのか。ごく形式的に答えておくと、抽象のレベルが違うのである。たとえば、弁証法で「万物は流転する」といった場合、この「万物」は文字通り万物であって、全てを含むものである。万物の中には自然があり、社会があり、精神がある、これらをひっくるめて「万物」というのである。これと全く同じように「対立物の統一」の中には「量から質への転化」があり、「対立物の相互浸透」があり、「否定の否定」がある、これらをひっくるめて「対立物の統一」というのである。
 もっと日常的な例で説明すると、肉といっても牛肉もあれば豚肉もある、鶏肉もある、しかしそれらの特殊性を捨象したところに「肉」というより抽象的な概念が成立するというのと、論理的には全く同一である。
 文献解釈に熱心な哲学者は、こういった論理の立体性を全く無視する傾向がある。これは言語が同じ言葉でさまざまなレベルの内容を示すことができるという特徴を持っていることと関係があるが、ここでは措く。
 また不破が「対立物の統一」と「対立物の相互浸透」をとり違えて平然としていることは、不破が「対立物の相互浸透」について全く理解していないことを証明している。「相互浸透」の論理構造については、機会があれば詳しく論じたい。

 ここで、レーニンが挙げている弁証法の諸要素の16項目(不破は18項目といっているが16が正しい)についても簡単に触れておきたい。まず確認しておかなければならないことは、レーニンが16項目も挙げているのだからエンゲルスの三つは少なすぎるとか、弁証法にはこんなに多様な側面をもっているのだ、とかいう主張は、全くナンセンスである、という点である。牛肉であれ、豚肉であれ、もっと抽象のレベルを下げれば、もっと具体的に見れば、さまざまな種類(ばら・もも・ロースなど)があるのであって、それを「牛肉」と「豚肉」というふうに二つに括るのはおかしい、などということはできない。また本来抽象のレベルが高い認識というのは具体的な多面性をそのうちに含んでいる(これを弁証法では「止揚」という)のだから、法則の数が少ないから多面性を含んでいない、というのは、法則というものを全く理解していない者の見解である。
 さて本題であるが、結論からいうと、レーニンはヘーゲルに引きずられたために、弁証法と認識論の区別が付けられず、その結果としてこの16項目の中には認識論の規定も含まれている、ということである。いうまでもなく、ヘーゲルにあっては、自然も絶対的理念、つまり認識の姿を変えたあり方であったために、自然の中の一般的な運動性を扱う弁証法も、実は認識(=絶対理念)を扱っているのであるから、認識論だということになる。
 しかし、唯物論の立場に立つ弁証法(唯物弁証法)が、学問的に対象としているのは、あくまでも世界全体(自然・社会・精神)の一般的な連関・運動・発展であって、それ以外ではない。一方、唯物論の立場に立つ認識論が、学問的に対象としているのは、あくまでも人間の認識であって、それ以外ではない。
 したがって、ヘーゲル弁証法の対象が認識であるとはいえても、唯物弁証法の対象は認識に限られるわけでもなければ限られてよいわけでもないのである。こんなことも実は『フォイエルバッハ論』等のいわゆる「入門書」にも書かれてあることであるが、不破は全く理解していない。

 この後、不破哲三の媒介を無視する形而上学的発想の例として、量と質の関係、および主体的条件と客観的条件の関係を取り上げようとしたところで止まってしまっています。機会があれば続きを書いてみたいと思っています。