<名無しのゴーストライターさんへ>
あなたの投稿を興味深く読みました。そして、特に生協の現状部分に関しては、KM生さんと私は似た認識なんですが、あなたのご認識は不思議だなという感想を持ちました。
以下、長くなりますが私なりの「日本共産党と大衆組織(なかんずく協同組合)」論を書きましたのでお読み下さい。ちなみに私は生協、農協、労働者協同組合等の協同組合運動やNPO・NGO非営利諸団体の活動はこれからも重要な位置を占めるものと信じており、であるがゆえに、私が関わった日本労協連の幹部が起こした腐敗を特に厳しく指弾しておる人間であり、自前のサイトも持っています。
さて日本における協同組合運動は1920年代からの伝統があり、マルクス主義者の陣営でも特に「労農派」が熱心で、その系譜の右派社会民主主義者は30年代後期より国家社会主義の道を歩みました。もともと協同組合主義はまかりまちがえば強権的国家と結びついてしまう欠点をもっております。つまり下からの集産化を図るはずが、上からのファッショ的統合の手段として逆利用されてしまうのです。スペインのフランコも協同組合を重視しましたし、旧社会主義国を見ても、ソ連のコルホーズ・ソフホーズ、中国の人民公社、「民主」カンプチアのサハコー、これらはいずれも行政機構としての役割を付与され権力が集中し、兵営型協同組合またはスターリン主義的「民主集中制」の協同組合であったというべきでしょう。
しかし現在でも協同組合や非営利団体の活動は盛んであり、大資本を太らせるグローバリズム、新自由主義的「構造改革」のかけ声の裏では、セーフティネットとしてのそれらに期待する「善意の」論議も盛んです。かつて民青全学連で活躍した幾人かの団塊世代論客のなかには、過剰にそれらを祭り上げ「NPOが社会を変える」「協同の時代」などと、無前提でうつくしい空文句を振りまいている者もいます。また、わが日本共産党は資本主義の枠内での改革を現在の主要課題とはしているものの、来るべき社会主義日本の青写真として、産業部門を問わず中小零細事業についての「協同組合化」というオプションを放棄しているわけではありません。
ですから、協同組合化はいいが、戦前の協同主義者の誤りも当然踏まえなければなりません。じゃあ内容としてどんな運営が協同組合に求められているのか? という問いに必ず行き着くはずですが、その論議は最近の党内では全く聞かれません。
いったい日本共産党に何が起きたのでしょうか?
あなたはこう書かれています。「私が離党した直接的なきっかけは、90年代前半に赤旗評論特集版(以下評特)が、突如生協批判をはじめたことです。」実はその評特の記事は91年10月に「生協運動 その原点と今日」と題するパンフレットになりました。批判の伏線として84年の原水協問題、すなわち平和行進における「団体旗自粛問題」があったことはあなたの指摘された通りであり、同意します。ただそこからが意見を異にします。
私のホームページ作りに協力して下さった東京都民生協・元職員が「生協運動 その原点と今日」を、あなたとは逆の観点で評しておりますので、まず御参照下さい。【http://www.hoops.livedoor.com/~kukchung/otakara/coopmovement.htm】
無党派でどちらかというと旧社会党左派に近い筆者・白井純一郎氏はこの稿で、80年代の原水協などへの介入と、大阪いずみ市民生協・日本労協連・奈良民医連吉田病院など党員幹部の不祥事や労働者弾圧が相次いで発覚したのに拱手傍観している90年代後半の党中央とを対比して、次のような「キャッチコピー(本人談)」をつけました。
「果断な誤爆から、優柔不断な沈黙へ。自己絶対的で硬骨なわからず屋から、意味深に笑っている『スマイリング・コミュニスト』へ。政治のリアリズム押しつけから、事業のリアリズムとの結託へ。---確かに共産党は様変わりした。その端境期にあって、この『生協運動---その原点と今日』は果断に正鵠を得た、希有な文書である。」
ひるがえって、党に近いと思われるあなたの仲間の「受け止め方は『経営を守ることが俺たちの仕事じゃないか』『共産党は何もわかっちゃいない』という否定的な受け止め方でしたが、あきらめや敬遠、あるいはあえて触れないでおくといった‘空気’が支配的だったように思います。」とのことです。観点のこの差を作ったのは何でしょう? 白井氏は生活クラブも交えた生協同士の競争さえ激烈な東京都内で働いていたから、むしろ党パンフがいう「生協の原点」を噛みしめることが差別化にもなり生協間競争にも勝つこととにもなるととらえ、論点に好意的なのでしょうし、一方、あなたと仲間の方々は地方であったからまた別意見であるという差なのでしょうか。よろしかったら考えをお聞かせ下さい。
しかしいずれにしろ、問題は現在です。あなたは「もしあの時党の批判通りに運営していたら、その後襲うことになる大不況で、多くの生協は経営を存続させることは難しかったと思います。」とお書きです。しかし近年、北海道では札幌の市民生協と釧路市民生協が実際に破綻しましたし、その原因が末端組合員不在での理事会や常務理事会の大店舗化への暴走にあることは、日生協すら認めています。またいずみ市民生協事件も記憶に新しいし、いまやあのコープ神戸さえ苦戦し労働者への強力な退職勧奨がやみません。都合の悪いときは全組合員の責任とする悪弊があるためか、家屋敷まで売り払い経営責任をとった生協幹部など聞いたこともないくらい、モラルハザードは深刻です。
さらに ---我田引水になりますが--- かつて農協や生協の経営至上化を「左」から批判していた労働者協同組合も、幹部による領収書偽造、経費使い込み、労働者(=出資者)弾圧が明らかになっています。やはり党の批判は「ある意味」正しかったのではないでしょうか? もちろん、あなたの反論をボツにしてしまうような党の体質には大いに問題があります。ただ追伸に書かれているごとく、職員の自由発言を以て「外部とのつながり」など噴飯物の「あらぬ嫌疑が」かかるようでは、あなたのいた生協もまた、スターリン主義に毒されているようですね。
「生協運動 その原点と今日」の話に戻りますが、日本共産党は少なくとも94年の第20回党大会まではこのパンフの立脚点を維持しました。大会決議には「この間、生協運動の分野では、日生協本部の活動方針から、核兵器廃絶などの平和の課題が欠落したり、組合員の共同購入を消極的にあつかって大企業と競いあう大店舗化をすすめるなど、『平和でよりよい生活』をめざす生協運動の原点からの逸脱が問題とされてきた。」などなど、300字程度言及されています。それが一転して97年の第21回大会決議では「生協運動が、その基本的性格にそくして、民主的に発展するように力をつくすことも、ひきつづき重要である。」と、たった50字に短縮されました。決議案についての討論はこの大会まで「評特」誌上で行われましたが、意見集をひもとくと、滋賀県の青木二郎氏がこの短縮に異議を申立て「懸念されるのは、今日では先の大会当時よりもいっそう(生協の)憂慮すべき事態が全国各地で表面化し、マスコミを賑わしている。」と指摘しています(97年9月15日付)。
党が「生協運動 その原点と今日」を著わした水準からどんどん後退し「事業のリアリズムとの結託」をするに至り、昨年春、荒堀広・党中央国民運動委員長が「これからは自由にやって下さい」と、国労や民青の幹部党員だけでなくおそらく日生協役員である党員も前にしてついに宣言するに到ったプロセスは、私には悪夢のように感じられます。なぜなら、協同組合幹部党員にとっては労働者弾圧へのフリーパスを得たようなものだからです。もともと党中央は、大衆団体の路線や幹部人事を批判・介入はしても「内政」たる労働事件には「干渉」しませんでした。私物化などの不祥事についても同様です。党周辺のあちこちにいわば「小チャウシェスク」を作り、批判の対象外もしくは聖域にしているわけです。かつての社会主義国内政への徹底的検証がない限り党の前進は難しいのと同様、日本の小ニコラエたちとともに新しい協同組合運動を論じ興すことも全く考えられません。
では、反論お待ちしております。