富士山さんは、先の投稿での私の説明では納得されなかったようなので、一つ「例証」を挙げたいと思います。
先の投稿での私の説明は、
①「世界のありかたをどうみるかにあたって(この場合の「世界」とは今現在の世界ではなく、人間はおろか生物、さらには地球さえ存在していなかった時代をも含めての世界です)、世界は何らかのかたちで創られたのか、それとも永遠の過去から未来にわたって存在するものであるのか二つの流派が存在し、前者を「観念論」、後者を「唯物論」と呼ぶ。」
②「観念論においては、精神(あるいは精神的存在)が物質(あるいは物質的存在)よりも決定的・根本的な存在であり、物質は精神の産物にすぎない(宗教はこの立場をとります)。それに対して唯物論では、物質こそ根本的な存在であり、精神は人間の頭脳活動によって生み出されたもので、人間の頭脳を離れた精神的存在(たとえば「幽霊」)などというものは存在し得ない。」
というもので、私は①と②を一連のものとして説いたのですが、それに対して富士山さんは①と②は一致しないのでは? と疑問を呈されたのでした。ですが、そもそも唯物論と観念論に関する私の説明は、決して私の独断ではありません。レーニンの『唯物論と経験批判論』を読まれているのであれば、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』には目を通されていると思われますが、先の投稿での私の説明はエンゲルスの説明の範囲内のものでしかありません。長くなりますが、以下はその『フォイエルバッハ論』の二章からの引用です。
「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在とはどういう関係にあるかという問題である。非常に古い時代から、――そのころ人々は、まだ自分自身の身体の構造についてまったく無知であり、夢に現れてくるものごとに刺激されて、自分の思考や感覚は自分の肉体のはたらきではなくて、…特別な魂の働きである、と考えるようになったのである、――この時代から人々は、この魂と外部の世界との関係についていろいろ思いめぐらさずにはいられなかった。もしこの魂が人間の死にさいして肉体からはなれて生きつづけるとするならば、この魂のためになお特別な死を考えだしてやるきっかけとなる事情はなかった。こうして魂の不死という観念が生まれた。…これとまったく似た道すじで、自然の諸力の擬人化によって最初の神々が生じた。この神々は、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます超世界的な姿をとるようになる。ついには、〔人間の〕精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程、…をつうじて、…多数の神々から、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭脳に生じたのである。」
「思考と存在との、精神と自然との関係という問題、哲学全体のこの最高の問題は、こういうわけで、すべての宗教におとらず、人類の野蛮時代の無知蒙昧な観念のうちに根をもっている。しかし、この問題は、ヨーロッパ人がキリスト教的中世のながい冬眠からめざめたのちにはじめて十分に明確な形で提出され、完全な意義を獲得することができるようになったのである。もっとも、存在にたいする思考の地位という問題は、中世のスコラ学においても大きな役割を演じており、根源的なものはなにか、精神かそれとも自然か、というこの問題は、先鋭化して、教会にたいしては、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というところまでいきついた。
この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した。自然にたいする精神の根源性を主張し、したがってけっきょくなにかの種類の世界創造をみとめた人々は…観念論の陣営をつくった。自然を根源的なものと見なした他の人々は、唯物論のさまざまな学派にはいる。
観念論と唯物論というこの二つの表現には、もともと、右に述べた以外の意味はない。(以下省略)」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』国民文庫版25-26p)
これが観念論と唯物論に関するエンゲルスの見解です。私の説明との大きな違いは、エンゲルスは世界観(特に観念論)の形成を歴史的=過程的に説いているということであり、私の説明はその範囲内のものに過ぎません(逆に言えば私の説明ではその過程を省いているので、その分エンゲルスの説明の方がわかりやすいとは言えますが)。
もしもエンゲルスの説明でも納得されないようであれば、私にはエンゲルス以上に簡にして要を得た説明はできませんので、私にはこれ以上説明のしようがないということになります。ですが、富士山さんの(第一の)疑問の原因は別にあると思われましたので、それは別稿にて展開したく思います。