先の投稿の続きです。
まず富士山さんの、先の投稿での私の論に対する反論の中身を整理してみます。
<龍の騎士は①で「創造者」のあるなしを、観念論と唯物論を区別する指標にしているが、それは誤りである。なぜなら、
(1) 宗教の中には「創造者」を持たないものもある。
(2) また現代の日本では、各宗教の信者で「創造者」によって世界が創られたと信じている人間はほとんどいない。
⇒(1)のような宗教の信者や(2)のような考え方をもつ信者を「唯物論者」として良いのか。
(3) それにこれらの信者でも唯物論的な考え方(例えば「世界は永遠の過去から未来にわたって存在する」という主張)をする人間がいる。それにはなんらの矛盾もない。
これらの「根拠」により、①と②は一致しない。また①を観念論と唯物論とを区別する指標にすることはできない。>
この(1)(2)(3)について順番に解答してみたく思います。
(1) このような主張が持ち出されてきたのは、富士山さんが私の言う「創造者」を(一神教の)「神」と同じものであると理解したからだと思われます。しかし、先の述べたように「世界観」における「創造者」とは、あくまでも「物質」以外の・「物質」を生み出すとされる「精神的存在」の総称であり、それが各宗教や哲学で具体的にどのように解釈されるかは千差万別です。「創造者」=「精神的存在」ですが、「創造者」が常に・必ず・一神教や多神教の「神」のように・「擬人化された存在」あるいは「龍神」や中国の「四神」のような「空想上の生物」として、誰が見てもわかりやすい形で、表現されているとは限らないのです。
一見して「創造者」の存在を主張しない(体系に組み込んでいない)宗教や哲学の場合は、「神が世界を創造した」とは言わなくとも、(いわゆる)「神」とは違った形で「精神的存在」の実在を持ちだしたり(客観的観念論)、あるいは人間の「精神」の働きを「度外れ」に強調して(主観的観念論)、「世界の創造」を、「物質に対する精神の優位性」を主張してきます。
<「創造者」を持たない宗教の信者を「唯物論者」と称してよいのか?>という富士山さんの批判は、私が「創造者」を(いわゆる)「神」に限定して主張したというのならば、「創造者」としての「神」が出てこなければ、その宗教や哲学は観念論ではない!?という奇妙なことになってしまうので、妥当するでしょうが(そう思っていらっしゃるようですが)、実際はそうではないので、この批判は妥当性を持ち得ません。
(2)例えば世の中には「無神論者」と呼ばれる人達がいますが(日本人は無神論的な傾向が強いといわれますが)、仮にそのなかで「神はいないかもしれないけれど超能力ならあるのでは?」と主張する人があれば、その人は「神」の力を否定した代りに、物質に対する人間の「精神」の力の優位性を主張したことになり、無意識のうちに主観的観念論を唱えたことになります。「唯物論者」は「無神論者」ですが、「無神論者」だから「唯物論者」だとは必ずしもいえません。このような場合を想定するならば、「創造者」による「世界の創造」を認めるか否かは、その人が「唯物論者」であるという指標には確かになり得ません。
ですが、私が先の投稿でとりあげ、また富士山さんが問題にしたのは、<「創造者」の有無によって「観念論」と「唯物論」を区別するのは妥当か否か?>ということだったはずであって、そのことと、個々の信者がその宗教なり哲学なりで主張されている「創造者」や「世界の創造」を認めることが、その人間を「唯物論者」「観念論者」に区別する基準とすることができるのかという問題は、別のことです。(1)のような宗教・哲学を信じている信者に関しても同様です。
(3)そもそも宗教や哲学は、個々人が日常生活で得られる認識とは別に、相対的に独立して発展していく・一つの<社会的な共有財産>として扱われている・体系的な認識、すなわち「イデオロギー(観念体)」の一つの具体的なありかただからです。このイデオロギーは、日常で得られる個々の認識とは別に、頭のなかである程度まで相対的に独立して存在することができ、かつ独自に発展していきます。「唯物論」的見解と「観念論」的見解は、本来はその性格上対立したものであるにもかかわらず、一人の人間の頭のなかで「平和共存」することも可能ですが、それはこれらもまたイデオロギーだからです。「唯物論と観念論は根本的にあいいれず、どちらかの立場に立たねばならない」という自覚がその人に無いのであれば、「矛盾」なぞおこりようがありません。
「実存主義」は主観的観念論の一種に他なりませんが、その人が観念的に・思想として「実存主義」を支持していることと、日常生活においてその人が「実存主義」的発想に反した唯物論的な発想・行動をとるということは、両者が「世界観」の上では本来は「矛盾」しているのだという自覚がない限り、両立します。
どんな観念論者であろうとも、自分の留守の間に現金や貴重品が盗まれていたなら、ふつうならその人は慌てふためいて「空き巣に入られた!」と考え、近くの交番にいくなり110番通報なりするでしょう。この観念論者はその際「唯物論者」として振舞ったことになりますが(ほんとうに「観念論」を貫こうというのであれば、その人は「これは誰かに盗まれたのではなく、本当は「ある」のだけれど私の主観によって認識できないだけだ」とか、「これは神の仕業である」と、筋を通さねばなりません)、これをもってその人を「唯物論者」と呼んでよいわけはありません。「唯物論者」と称するからには、本来は行動はもとより、その観念も「唯物論」に基づいたものでなくてはなりませんし、常にその努力をしなくてはなりません。つまり世界観的に「一貫性」を把持する努力が求められます。(「科学的社会主義者」もまた然り!です)。「唯物論者」と称していれば「唯物論者」になれるというわけではないのです。
しかしこのことは、<「創造者」の有無によって「観念論」と「唯物論」を区別するのは妥当か否か?>という問題とは、(2)同様、別の話です。
以上要するに、富士山さんは二つの問題、すなわち
(A)<その宗教や哲学の体系が「世界の創造者」の存在を承認しているか否かによって「観念論」と「唯物論」を区別すること>
と、
(B)<個々の信者が、その宗教なり哲学なりで主張されている「創造者」や「世界の創造」を承認するか否かを(つまりその教義に対する信者の「主観」を)、その人間を「唯物論者」「観念論者」に区別する基準とすること>
を混同して、「矛盾」なく論じています。
これでは①と②が論理的につながっているということなど理解されるはずがありません。私の述べた①の内容は(B)ではなく(A)のことを述べているのに、富士山さんは「龍の騎士は(B)の意味で述べているのだ」あるいは(A)と(B)を混同して解釈されたのですから、理解されるはずがありません。