龍の騎士さんが、再び返答していただいたことに感謝しております。しかし、またも私の疑問の核心に答えたものになっていないと考えますので反論します。まず、なぜそう考えるのかを説明し、その後個別的な反論をします。
1. 世界の始まりの原因を物質的なものによると考えるか、精神的なものよると考えるのかが、唯物論と観念論を分けるのだという見解。
2. 物質と精神のどちらがより根本的と考えるかが、唯物論と観念論を分けるのだという見解。
私は、この2つの見解を同じものではない(より正確に言えば2があれば1は必要ない、1は不正確)と考えますが、龍の騎士さんは一連のもの(定義上1は必要)と考えています。
そこで、私は前回、「しかし、この説明では、なぜ1の前提から必ず2が論理的に導き出されるのかがわかりません。」と書きました。つまり、龍の騎士さんに1による区分が必ず2による区分と同じになるということを証明して欲しいということなのです。これに対し龍の騎士さんは、そのような証明ではなく、専ら私の例に対する枝葉の部分での反論をされています。再度書きますが、私は1による区分が必ず2による区分と同じになるということを証明することはできないと考えています。なぜなら、1による区分では唯物論であっても2による区分ではそうならない場合もあると考えているからです。そして、私が納得するにはこのことを証明して欲しいということです。
以上が、私が納得できない理由です。
個別的な龍の騎士さんの議論への反論は、枝葉の議論だと思いますので、今回は、詳細に納得できない全ての箇所までは論じません。特に気になる部分のみ反論します。
A.エンゲルスの『フォイエルバッハ論』の例証について。
私は、エンゲルスが唯物論と観念論の説明をする時に、本来異なる2つの問題を正確に分けずに、一緒に論じたことは論理的に不正確であると考えています。従って、今回龍の騎士さんとの議論でこのことを問題提起したかったのです。
B.宗教の中には「創造者」を持たないものもあるという私の主張への反論部分について。
龍の騎士さんはこう書いています。
「一見して「創造者」の存在を主張しない(体系に組み込んでいない)宗教や哲学の場合は、(中略)「世界の創造」を、「物質に対する精神の優位性」を主張してきます。<「創造者」を持たない宗教の信者を「唯物論者」と称してよいのか?>という富士山さんの批判は、私が「創造者」を(いわゆる)「神」に限定して主張したというのならば、「創造者」としての「神」が出てこなければ、その宗教や哲学は観念論ではない!?という奇妙なことになってしまうので、妥当するでしょうが(そう思っていらっしゃるようですが)、実際はそうではないので、この批判は妥当性を持ち得ません。」
私も実際はそうではないことは分かっていますが、1の論理を突き詰めれば実際とは違うことになると言っているのです。そこで、龍の騎士さんは「物質に対する精神の優位性」という2の論理を持ち出して「創造者」を持たない宗教を観念論と規定しています。つまり、1の論理だけでは指標とはならないという私の主張を龍の騎士さん自らが認めてしまっているのです。
C. 各宗教の信者で「創造者」によって世界が創られたと信じていない信者を「唯物論者」として良いのか。 それにこれらの信者でも唯物論的な考え方(例えば「世界は永遠の過去から未来にわたって存在する」という主張)をする人間がいる。それにはなんらの矛盾もない。これらの「根拠」により、1と2は一致しない。また1を観念論と唯物論とを区別する指標にすることはできないという私の主張への反論部分について。
ここで龍の騎士さんが述べられていることは、宗教や哲学の体系が唯物論か観念論かということと個々の信者が唯物論者か観念論者かということは別であり、富士山はこのことを混同しているということでしょう。そこで「混同して解釈されたのですから、理解されるはずがありません。」とされています。しかし、百歩譲って、宗教や哲学の体系が唯物論か観念論かということにのみ問題を限定してみても、龍の騎士さんは、1の指標のみを使って龍の騎士さんが考える唯物論と観念論の実際の区分をすることに成功していないと言わざるを得ません。