1、 大企業の生産手段の社会化について
「生産はますます社会化するが、その取得は、私的なものになっている。」
これが解答になるのでは。
大企業の生産・活動は現在においてもますます社会的位置付けを強くしています。地域経済に対する影響、環境に及ぼす影響、さらには、文化に対する影響など様々に社会的影響を与えています。企業が自らの社会的責任を果たすことの重要性が強まっています。
しかしながら、その活動は、一部の経営者の利益や銀行の利益に縛られており、決して、社会全体にその利益を考えたものとはなっていません。ここに、生産の社会化とともにその生産手段を社会化する必然性があります。
すなわち、生産手段の社会化とは、生産活動の発展方向が社会全体の利益を反映する方向に発展することではないでしょうか。それをコントロールする仕組みは、単純に、その企業を国有化するのではなく、資本主義の発展の中で、生み出された様々な技術あるは、民主的な国民の経験などが重要な鍵を握っているのではないでしょうか。
また、現在の資本主義社会において、会社が法人化していることは、必ずしもその所有・生産手段が社会化していることを意味しません。多くの会社
は株式会社であり、その株の過半数を持つ人間(あるいは会社)が絶対的権限を握ります。過半数を保有しなくても、他の株が分散的に所有されているのであれば、もっと少ない株の所有で会社を実効的に支配することが可能でしょう。子会社化あるいは、分社化はそれをより巧みな物に変えています。
すなわち、会社の法人化はその会社のすべての資本をにぎらなくても、少ない資本で、一つの会社を支配する有効な仕組みです。
もちろん、個人経営の会社などの中小企業は個人の所有の傾向が強いものですが、その会社の生産・営業などの社会的影響力は相対的に小さく日本が社会主義社会の段階に進むにあたってもその所有を社会化することよりも、むしろ、それぞれの自由な活動の中で、それぞれの独自性や機転性を生かすことが日本の経済の発展・貢献につながるのではないでしょうか。
資本主義社会の中でも、大店舗小売店の身勝手な出来店の規制や大企業の気ままな首切り合理化など、大企業が地域や労働者に対しての社会的責任を果たさせることは、民主的ルールとして今の日本でも確立させる必要があります。
2、収奪について
収奪とは、一般的に経済的力以外をつかって、搾取以上により多くの価値を奪いとることです。広い意味では、搾取と呼べるかもしれません。
資本主義における搾取は、普通の意味では、労働者が労働力をその価値通り資本家に売っても(すなわち、労働をして、通常の賃金を受け取っても)、資本家は、労働者をその労働力の価値を生産するのに必要以上の時間働かすことによって得られる剰余価値を受け取ることですが、収奪はそれ以上に、たとえば、賃金を支払う資本家が経営する店で使うことしかできない商品券などで労働者に賃金を支払い、その店では不当に高く食料品などを売ることによって、より一層の利益をあげようとするものです。(どこかの電機メーカー自らの企業の商品券をボーナスの一部に当てたことがありましたね。)
現在の日本においては、超低金利政策による銀行利子払い。(銀行はそうしたほとんどただに近い庶民の預金を下に、投機的資金運用で利益を上げている。これは通常の経済ルールを無視している。)生活費非課税の原則を無視して、掛けられる消費税。あるいは、住民税非課税者にも掛けられる介護保険料などが代表でしょう。
以上は私流の理解です。