民青についての投稿がいくつかありましたので、現役同盟員の立場から発言させていただきます。
まず、民青の現勢が最高時から約1/10に後退していることについてですが、方針上の問題とそれ以外の問題に整理する必要があると思います。
方針以外の問題でいいますと、青年を獲得できていないのは日本共産党にかぎったこではない。まず、自民党ですが、若手議員のほとんどは二世・三世議員です。固い支持層や党員には青年はほとんどいない。公明党・創価学会には青年活動家が一定いますが、そのほとんどは二世です。民主党・自由党の若手議員には自ら政治家を志した人間が比較的多いが、議員政党の性格が強く青年を組織しているとは言えない。
ですから、一時的に青年の票を獲得しる党はあっても、青年を組織することに成功している政党は現状はないとこを、まず見る必要があると思う。
ですから、小さくなったが、民青同盟と主要大学に党支部を持っている日本共産党は他党にくらべ青年獲得の足場は持っていると評価していいのではないか?
それから、共産党の青年分野の方針の転機となった青年全活が89年であったということも見逃すことができない。中国の天安門事件の年であり、その後数年、東欧諸国とソ連の「社会主義体制」の崩壊つづき、強烈な反共攻撃のなかで、方針の思考錯誤をしてきたこと忘れてはならない。 ちなみに、89年の青年全活では現・委員長の志位氏が青年学生対策委員会の責任者として方針の報告している。
民青が現在の現勢までなったのは、方針上では90年代初頭に行われた実態のない同盟員の解決と組織拡大の軽視の傾向になります。
当時、公称20万といたが多くの結集の意思のない同盟員が存在した。その当時は加盟していなかったので聞いた話になるが、活動が組織拡大に一面化していた傾向が当時の民青にはあり、魅力有る活動ができている班が少なかったようだ。活動に魅力を感じなくなった同盟員が脱退を表明ししても簡単に脱退を認めなっかたため、実態のない同盟員が大量に抱えるようになった。長く続いた反動攻勢のなかで、公称20万の組織を維持しようとして無理をしていたのではないかと思う。
実態のない同盟員の整理後、現勢は20万人から「60年代前半の現勢」という表現に変わった。恐らく4から5万人の現勢になったのではないか? その後、96年の大会で2万2千人(記憶では。。)という現勢が明らかにされた。
また、実態の同盟員の解決と平行して、民青同盟の原点に立ち返った活動(20回大会・原点路線)打ち出され民青の活動改善の方針がだされた。原点とは民青同盟の活動が青年や同盟員から魅力あるものに改善し、活動の魅力で青年と同盟員の結集は目指すとうものになる。この方針がだされたときに、組織拡大や配達集金などの組織活動は魅力のある活動ではないからという理由で、軽視される傾向がうまれた。(当時民青では「逆ゆれ」とよんだ)
身の丈にあった組織になったことと活動の改善で前進を目指したが、この「逆ゆれ」ですぐに前進できなっかた。また、前述したが、その頃におこった天安門事件、東欧の「社会主義国の崩壊」、ソ連崩壊による強烈な反共攻撃があったことも前進できなかった要因に付け加えておきたい。
少なくとも民青が後退したのはこの数年の出来事ではなく、十数年前いや二十年近く前からじわじわと後退して、今日に現勢にいたっていることをご理解いただければと思います。
地区委員会の廃止が後退の最大の要因という指摘がありましたが、前述のことは地区委員会廃止前の話になります。地区委員会の廃止は後退の大きな原因ではないと思っています。というより民青が大きく後退したから地区委員会を廃止したといったほうが正しいと思います。
実際、現勢が100人以下の地区委員会が多数存在していた。そのため、少ない活動的な同盟員を班から地区委員会に引き抜くことになり、班活動の停滞の原因の一つになっていた。この方針は地区委員を班の幹部に戻し、班活動を活性化させることを大きな目的としていた。
たしかに、今にて思うと、一律の廃止ではなく各地の実情にあった組織再編の検討があってもよかったのではないかと思っている。たしかに地区委員会を維持するのが困難なところも多数あった。完全廃止だけでなく、権限を縮小した指導機関を作ったり、共産党の地区に無理に対応させずに広域で地区委員会を構成するという選択肢もあってしかるべきではなかった?
最近の民青の方針でも、複数の都道府県委員で構成する地域協議会を作ることになっている。ある意味で、権限をかなり縮小した地区委員会的な組織を作っているのが現状です。実際の組織運営では、都道府県委員会が直接全班を指導するのが困難で、中間指導機関が必要ということなのでしょう。
推測なるが、当時の党青年学生対策の責任者が金子逸氏だったことも、全国一律の地区委員会廃止に向かった大きな原因だったと思われる。金子逸氏はあまり表舞台にでて来ない幹部だったのでご存知ではない方も多いと思うが、同じ頃に「経済」、「文化評論」、「赤旗評論特集版」などの赤字雑誌の廃刊を断行した人になる。民青も雑誌の廃刊同様のリストラの対象であったのかもしれない。
20万の民青で活動していた方からすればどうしてそこまで後退したかと思うかもしれませんが、暖かい目で青年党員や同盟員を見守っていただくよう、お願いいたします。