はじめまして。初投稿になります。よろしくおねがいいたします。
ミドリさんは、
「私は民青で唯物論に疑問をもって以来、宗教書から科学書まで弱い頭を駆使し模索してきた結果、現在、唯物論は間違いである事を確信するに至りました・・・」
と書かれておられますが、初投稿の身で恐縮なのですが、科学的社会主義を学ぶものとして、というよりは科学を学ぶものとして、「唯物論は間違いである」ということに、いささか納得が行きません。
そもそも「唯物論」とは何か。これは「世界観」の一つです。では「世界観」とは何か。これは哲学上の術語であって、常識レベルでの世界観とは違います。
世界のありかたをどうみるかにあたって(この場合の「世界」とは今現在の世界ではなく、人間はおろか生物、さらには地球さえ存在していなかった時代をも含めての世界です)、世界は何らかのかたちで創られたのか、それとも永遠の過去から未来にわたって存在するものであるのか二つの流派が存在し、前者を「観念論」、後者を「唯物論」と呼ぶ。
観念論においては、精神(あるいは精神的存在)が物質(あるいは物質的存在)よりも決定的・根本的な存在であり、物質は精神の産物にすぎない(宗教はこの立場をとります)。それに対して唯物論では、物質こそ根本的な存在であり、精神は人間の頭脳活動によって生み出されたもので、人間の頭脳を離れた精神的存在(たとえば「幽霊」)などというものは存在し得ない。・・・というのがいわば教科書レベルでの「世界観」の説明です。
科学的社会主義は「科学」を標榜していますが、それは一つには観念論的先入見(エンゲルス)を持たずに事実から出発して対象(この場合は資本主義など)を究明しようとしたからで、自然科学が自然を自然それ自体から解き明かそうとし、「雷神」や「風神」を認めないのと同じことです。その世界観が唯物論であるのは当然のことです。(なお上記の意味で科学的社会主義はいわゆる「思想」とは本来は一線を画すのですが、実際はミドリさんの言うような意味=思想レベルで捉えられて来ました。ここもまた議論の余地があるところです)。
ここで後者の唯物論に話を絞ると、実はこれにも二つの流派があるのです。一つは「形而上学的(または機械的)唯物論」というもので、もう一つは良く知られるところの「弁証法的唯物論」です。前者と後者の最大の違いの一つは、「人間の精神の能動性」すなわち「意思」を前者では論理的に(りくつとして)認められない・切り捨ててしまっているところにあります(ゆえに前者は「タダモノ論」とも呼ばれる)。後者は、物質が精神よりも決定的であるという大枠のなかで、二義的ではありますが「人間の精神の能動性=意思」を認めているところが前者と大きくちがいます。
ミドリさんが民青で「唯物論」のどういうところに疑問をもったのかは良くわかりませんが、民青(ないし共産党)にタダモノ論的な傾向がいまだにのこっているのは残念ながら事実だとおもいます。それが理論のみならず実践面にも浸透しているのですから、ミドリさんのように「唯物論」に疑問を持たれる方が出てくるのも不思議ではないと思います。ですがそこから「唯物論」すべてを否定するのは行き過ぎだと思い、投稿した次第です。
(なお、上記の文章だけで「世界観」の説明がし尽くされているわけではない、ということをお断りしておきたく思います。)