まず第一のご質問、つまり先の投稿にあった、
「・・・民青(ないし共産党)にタダモノ論的な傾向がいまだにのこっているのは残念ながら事実だとおもいます」
の、「いまだに」の意味するところですが、実は私はJ.D.さんのようにマルクス・エンゲルスのレベルまで考えていたわけではなかったのです。むしろ私はこのときは、自分の個人的な経験を念頭においていて、それをミドリさんの投稿の内容と重ね合わせて考えていたので、そこまで掘り下げて考えてはいなかったのです。
あと他に念頭にあったとすれば、50年以上前に日本であったという「主体性論争」でしょうか。その当時の詳しいことまではわかりませんが、敗戦直後に起こったとされるこの論争は、日本の唯物論のもつ弱点=客観主義的・タダモノ論的偏向を指摘し克服するうえで、それなりの意義があったのではないかと思っていたわけです。
ですが、自分の経験を踏まえても、客観主義的・タダモノ論的偏向が克服されてないどころか、そういう傾向が自分たちの理論にあるということが、この現代の日本の民青(および共産党)においては問題意識としてすらしないのでは?と思えます。その意味ではJ.D.さんの言われるとおり、退行しているとさえ言えます。むろんマルクスやエンゲルスが150年前に打ち建てた、その理論のレベルからすれば、一体どうなっているの?と問い返したくなるくらいです。
以上要するに、先の「いまだに」という言葉には、J.D.さんほどには深い意味を込めてはいませんでしたが、「(以前よりはマシになったけど、それでも)いまだに・・・」という意味で用いたわけではない、ということです。
(なお、第二のご質問、というか要望=「世界観」についてのさらなる論の展開は、別稿にて扱いたく思います。)