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「世界観」に関して――富士山さん、およびJ.D.さんへ

2002/1/21 龍の騎士、20代

 私の先の投稿に対し、冨士山さんから2つほど疑問点が出されたため、今回はそれに応じた形で論を展開したく思います。また同時にこれはJ.D.さんのご要望にも応えたものでもあります。

 第一の疑問で、冨士山さんは、私が唯物論と観念論に対して2つの異なった定義をされているのでは? と考えておられるようですが、結論から言えば、そうではありません。冨士山さんの疑問は、先の投稿からは「前者」と「後者」のつながりがはっきり見えてこないために、「別々の定義を下しているのではないか?」と思われたのだと思いますが、そうではないのです。
 ここは本来は「哲学」の掲示板ではないということ、また公開されるのがWeb上であること、などを考慮して、科学的社会主義に関わるであろう必要最低限度において論じようと考え、長文を避けて、詳細な展開は控えたのですが(それでも結構長くなりましたが)、やはりもう少し詳しく論じた方がよいようです。なお①、②は私の前の投稿からの転載です。

①「世界のありかたをどうみるかにあたって(この場合の「世界」とは今現在の世界ではなく、人間はおろか生物、さらには地球さえ存在していなかった時代をも含めての世界です)、世界は何らかのかたちで創られたのか、それとも永遠の過去から未来にわたって存在するものであるのか二つの流派が存在し、前者を「観念論」、後者を「唯物論」と呼ぶ。」

 この文のより詳しい展開は以下の通りです。

 仮に、この「世界」は何らかの形で創られたのだ(あるいは日々創られているのだ)、という立場、すなわち「観念論」の立場にたってみますと、当然「この世界を創った(創っている)のは何者か?」ということ、つまり「創造者」の存在を問わねばならないのですが、その場合この「創造者」には「物質以外のもの」を想定しなくてはなりません。
 何故かと言えば、「創造者」が「物質的」だとすれば、「それはこの「世界」の一部であって、「世界」全体を創って(創造して)いるわけではないではないか」という唯物論者の反論が出てくるからです「世界」の物質的な統一性、つまり「創造」と見えるものは、実は「物質」が「形」を変えたに過ぎないのであって、決して「無」から「有」が生まれたわけではなく、その意味で「世界」とは「永遠の過去から未来にわたって存在するものである」と、唯物論は主張しているからです。

 ですから「世界」の「創造者」を認めるならば、それは「物質」以外の存在を持ってこなくてはならないのですが、私たちにとって「物質」以外の存在で良く知られているもの…となると、それは「精神(的存在)」以外にありません。これを根本的存在として「物質」はその反映にすぎないと主張するのが「観念論」ですが、唯物論と同じように、その観念論にも実は2流派存在するのです。すなわち「主観的観念論」と「客観的観念論」です。
 前者は人間の「主観」(=認識、つまり「精神」ですが)を絶対化し、「主観」=「客観」、つまり「主観」から切り離された「客観的」な事物・事象などありえない、「客観」は「主観」に解消される、というわけです。極端な話、「眼をつぶれば世界は消えてなくなる!」と言ってるようなものです。イギリス経験論やカント哲学・実存主義などは、その内容に違いはあれども、この立場をとります。それに対して後者=客観的観念論では、「神」でも「絶対精神」(ヘーゲル)でもなんでもよいですが、「精神的存在」が客観的に存在するのだということを主張して、それが世界の原動力・根本的存在だと主張します。この「客観的観念論」の(正確には観念論的世界観の)最高形態がヘーゲル哲学です。いずれにせよ、「精神」が先・根源で「物質」はその反映・産物だと主張しているわけです。
 ゆえに、

②「観念論においては、精神(あるいは精神的存在)が物質(あるいは物質的存在)よりも決定的・根本的な存在であり、物質は精神の産物にすぎない(宗教はこの立場をとります)。それに対して唯物論では、物質こそ根本的な存在であり、精神は人間の頭脳活動によって生み出されたもので、人間の頭脳を離れた精神的存在(たとえば「幽霊」)などというものは存在し得ない。」

 という論理が導きだれるわけです。①は言うなれば「前提」で②はその論理的な結果であり、全く違ったことを述べているわけではないのです。

 第2の疑問についてはレーニンの『唯物論と経験批判論』の引用をもとに論じられていますが、もともと『唯物論と経験批判論』はカント流の不可知論者であるロシアのマッハ主義者への反駁の書として書かれたものですが、レーニンはフォイエルバッハに引きずられて「客観的真理=客観的実在」と考えていたのと、全てを主観に解消してしまうマッハ主義者の不可知論に反論するために「人間の認識は世界をありのままに認識できるのだ」と、「世界の客観性」を強調するあまり、俗流反映論に落ち込んでいたのでした。その意味でこの本の内容には限界があるのであり、認識論的にはマルクスやエンゲルスよりも後退しています。
 ある人が「お化け」をみたからといって、直ちに「お化け」が実在するとは言えません(実在を主張するのが俗流反映論です)。確かにその人は「何か」を「見た」のでしょう。が、それが「お化け」に見えたのはその人の「主観」であって、その「何かを見た」ことそれ自体は、なんら「お化け」の実在の証明にはなり得ません。川柳曰く、

「幽霊の 正体見たり 枯尾花」

 ちなみにエンゲルスはすでに、この問題に対してこう喝破していました。

 「彼(注:デューリングのこと)の思考の筋道をすっきりしたかたちで示そうと思えば、つぎのようになる。私は存在をもってはじめる。従って、私は存在を思考する。存在の思考は統一的である。しかるに、思考と存在とは調和し、たがいに照応し、『合致』しなければならぬ。従って、存在は現実においても統一的である。従って、『彼岸的なもの』などは存在しない、と。・・・思考と存在との同一性をもとにして、なんらかの思考上の産物の実在性をそれで証明しようとするのは、これこそまさにかの愚劣きわまる熱病やみの妄想――ヘーゲルなどのそれ――の一つだったのだ。」(『反デューリング論』「第一篇 哲学 第四章 世界図式論」より)