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世界の創造ということ>富士山さんへ

2002/2/4 J.D.

 ここで述べることは、まさに龍の騎士さんの見解の枠内なのですが、おそらく富士山さんには龍の騎士さんの見解が正確には伝わっていないと思いましたので、龍の騎士さんの見解を正確に理解するための手助けになれば、と思って書いてみます。
 まず、正確に伝わっていないと思う根拠を挙げておきます。もともと問題となっていたのは、次の二つの指標です。先の龍の騎士さんの言葉をそのまま使います。

①「世界のありかたをどうみるかにあたって(この場合の「世界」とは今現在の世界ではなく、人間はおろか生物、さらには地球さえ存在していなかった時代をも含めての世界です)、世界は何らかのかたちで創られたのか、それとも永遠の過去から未来にわたって存在するものであるのか二つの流派が存在し、前者を「観念論」、後者を「唯物論」と呼ぶ。」
②「観念論においては、精神(あるいは精神的存在)が物質(あるいは物質的存在)よりも決定的・根本的な存在であり、物質は精神の産物にすぎない(宗教はこの立場をとります)。それに対して唯物論では、物質こそ根本的な存在であり、精神は人間の頭脳活動によって生み出されたもので、人間の頭脳を離れた精神的存在(たとえば「幽霊」)などというものは存在し得ない。」

 ところが、富士山さんは、「みたび」の中で、次のように書いておられます。

1. 世界の始まりの原因を物質的なものによると考えるか、精神的なものよると考えるのかが、唯物論と観念論を分けるのだという見解。
2. 物質と精神のどちらがより根本的と考えるかが、唯物論と観念論を分けるのだという見解。

 ここでは、一つ目の見解が明らかに変化しています。龍の騎士さんは「世界の始まりの原因を物質的なものによると考える」のが唯物論である、とは書いていません。唯物論は、「世界の始まり」など認めないのです。まあ、ここは単なる書き間違いかもしれませんので、前置きはこれくらいにしておきます。
 端的にいうと、私は富士山さんが龍の騎士さんの真意を理解されていない一番の原因は、「世界の創造」という捉え方が狭いためだと思います。世界の創造といっても、その考えかたは大きく分けて二つあります。一つ目は、世界は大昔にただ一度創造されたとする考え。二つ目は、現に毎日毎時創造されつつあるとする考え。このうち、富士山さんは一つ目しか認めていないために、二人の議論がかみ合っていないのだと思います。もっとも、「世界の創造」という言葉で誰もがイメージするのは一つ目ですので、無理もないことですが。
 日常的な例でいえば、根拠もないのに決めつけるということがよくあります(特に日本共産党内では)が、これは二つ目の意味で世界の創造を認めていることになります。「自分はこう思うから、現実にはこうであるはずだ」というのですから、自分の精神が現実の物質的な世界を(部分的ではあれ)創造していることになるのです。つまり、この決めつけの部分に関しては(上述の二つ目の意味に関しては)、観念論である・あるいは観念論的である・としてよいわけです。しかし、この決めつけをやっている人に、「あなたは世界の創造を認めますか」と聞いても、「いいえ」と答えるでしょう。だから、その意味では(上述の一つ目の意味では)唯物論の・あるいは唯物論的な・考えかたをしているのです。世界観が一貫していないというのはこういう意味でもあります。
 また、学問の例を挙げておくと、カント哲学が二つ目の意味での世界の創造を認めていることになります。物自体は何の性質ももっておらず、物自体がもっているとされる性質は、実は人間の認識が与えているのだ、という考えですから、これでは世界の部分的な創造を肯定していることになります。
 以上のことを念頭に置いてもう一度最初から龍の騎士さんの見解を読まれれば、すんなりと理解できるのではないでしょうか。
 念のために、もう少し説明しておきます。龍の騎士さんの二つの指標の内容を表象化すると、次のようになります。

観念論=究極的には「精神→物質」であるとする世界観
唯物論=究極的には「物質→精神」であるとする世界観

 はっきりいってこれだけです。が、もう少し厳密に書いてみます。
 ①と②が同じであることを証明するということは、数学的にいえば「①⇔②(①と②は同値である=①は②の必要十分条件である)」を証明することです。富士山さんは、「なぜ1の前提から必ず2が論理的に導き出されるのかがわかりません」と書いておられるので、「①⇒②(①は②の十分条件)の証明」を求めておられるのでしょう。龍の騎士さんが言われたのと同じ事になりますがやっておきましょう。
 世界というのは物質的な存在であることは誰もが認めるであろうが、この世界が創造されたとすると、大昔にただ一度創造されたと考えるにしても、現に毎日毎時創造されつつあると考えるにしても、その創造者が問題になる。ところが、この創造者は必然的に物質的でない存在、すわなち精神的存在であるということになる。なぜなら、創造者が物質的な存在であるとすると、その創造者は実は世界そのものの創造者ではなく、世界の一部分だということになるからである。したがって、世界の創造を認めることは、精神が物質を生みだすことを認めることである。これはとりもなおさず、物質よりも精神の方が根本的、決定的である、ということである。
 逆に世界の創造を認めないとすると、世界は永遠の昔から存在しており、つねに物質的に統一されていたということになる。すると精神は、人間の誕生と同時に生まれる、脳髄(これは物質)の機能・働きであるということになる。これはとりもなおさず、精神よりも物質の方が根本的、決定的である、ということである。
 こんな感じでどうでしょう。そもそも、先の表象をみてもらえば分かるように、観念論では精神が先ですから、精神が根本的といってもいいし、また物質的な世界は精神によって創造されたといってもいいわけです。唯物論では、物質が先ですから、物質が根本的といってもいいし、また物質ははじめから存在しているものであって創造されたのではないといってもいいわけです。
 さらに念を押しておくと、先ほども少し触れましたが、「天地創造の神を持たない宗教を信仰している人を唯物論者であるとして良いのでしょうか?」との問いには、「そういった人は唯物論者であると同時に観念論者でもある」と答えることができます。つまり、一概にはいえない、ということです。これが矛盾というものです。これがまさに弁証法的な答えなのです。
 問題は、あの人が唯物論者かそれとも観念論者か、ということを形而上学的に決めてしまうということではなく、世界観を一貫させることは困難なことであり、唯物論と観念論は相互に移行し合うのだということをしっかりと自覚し、観念論への落とし穴にはまらないように常に努力し続ける、ということです。
 長くなりましたので、これで終わります。反論・質問等は大歓迎です。